1921年5月21日生まれ、1947年11月20日に死んだ、ドイツ人作家の作品集。邦訳は2巻本で出ていたこともある (早川書房、1953年、各380円) [1]
原著は、
Wolfgang Borchert : Das Gesamtwerk, Rowohlt Verlag, 1948.
あまり出来の良くない叙情詩、短い散文、短編小説、戯曲を収録。詩人指向であったし、本人の体調不良や戦中戦後の物資不足も手伝って長編小説など長めの作品がほとんどなく、26歳で死んだとはいえ遺稿も含めて500ページほどの全集である。
訳者はボルヒェルトの生涯を「俳優を夢見て志を遂げず、軍人として落伍し、令圄の人となって健康を損い、病名不詳の重病患者として医師に見放され」(517ページ)、とまとめる。「令圄[れいぎょ・れいご]の人」というのは「獄中の人」の意。兵役逃れのために自分で自分を撃った容疑で逮捕され軍法会議で死刑を求刑された。足部凍傷、黄疸、発疹チフス、肝臓病他を経験。不幸である。「普通の生活」を送ることのできた期間はほとんどなかった。
自分が1947年に26歳で死ぬはずの(詩人になれなかった)作家である、と想像してみれば、きっとこんなものを書くだろうと納得できる。[2]
ドイツ人でなく、1947年に26歳だったが死ぬことはなく、作家にならなかった詩人のパウル・ツェランは、こんなものを書かなかった。[3]
ドイツ人でなく、1947年に27歳だったが死ぬことはなく、詩人にもなりかけた作家のボリス・ヴィアンは、こんなものを書かなかった。[4]
2巻本の邦訳が刊行されたのは1953年。戦後8年、ボルヒェルトが死んでから6年。まだまだ生々しい「昨日」の文学だった。
しかし戦争の傷痕がようやく癒えて薄らぎかかつてきた今日から見れば、ボル ヒェルト全集の一巻はもはや誰ひとり会いたがらないような昨日の幽霊として、 戦史と共に過去の書棚に整理されてもよい、文学的ドキュメントにすぎないだ ろうか? 「戸口の外で」の主人公がかけていたような「防毒面用の眼鏡」は、 戦争の終つた今日では、もはや防毒面や鉄帽と共に忘却の谷間に投げ棄てられ てかまわないだろうか? [5]
それから50年経ち、ボルヒェルトの作品はしっかりと、「過去の書棚に整 理されてもよい、文学的ドキュメント」の仲間入りを果たした。時々誰かが会 いたがるような半世紀前の幽霊として。
「雪のなかで猫が凍えた」という話。
半分焼け残った或る村で、子供たちが黒焦げになった棒きれで遊んでいた。それから──白い棒きれが一本あった。それは骨だった。そして子供たちはその棒きれで家畜小屋の壁を叩いた。まるで誰かが太鼓を叩いているような音がした。骨はポンといった。ポン、ポン、ポンと。まるで誰かが太鼓を叩いているような音だった。そして子供たちは面白がった。とても白くって奇麗だった。それは猫の骨だった(289-90ページ)。
「ビルブルック」という話。
往来に出ると、空に二つ三つ赤い斑点のあるのが気になった。まだ夕映が残っていたのだった。血痕だ、そう思って、彼は血びたしになっている太陽に向って、元気のいい大股で歩きだした。まぎれもない錆いろの血痕──厭な色をしてる、と考えた。だが、そのとき急に夜風が吹いて来た。好意をもった涼しい風だった。まるで都会から微かに吹いてくるような軟かさに充ちていた。その風は軟かだった。そして気持よく、親しみをもってソヨソヨと顔を吹いてきた。ひんやりとして、まるでカナダの古い知人のように、友情に充ちていた(146ページ)。
活性化された街、物。Bill Brookという名前のカナダ兵が、ハンブルクのBillbrookという区を歩き回る。広告塔や街灯、公衆電話が話しかけてくる。
それからホープデールの星を一つ捜そうと思って、立ち止まって、インキのような空を振り仰いだとき、誰か自分を呼んだ。冥府[あのよ]じみた、現実とは思われない、逃げだそうとしても逃げだすことのできない、幽霊のような声だった。その声が呼んだ。「ヘイ、ビル・ブルックさん、こっちをちょっと見てくれませんか? わたしの最近のポスターを、ちょっと読んでくれませんか?」地響きのするような低音で呼んだのは、はすかいになった広告塔だった。稼業[しょうばい]熱心の余り、彼は前よりも一層地面に低くうつむいていた。広告塔は頭が禿げ、素裸になり、幽霊のようになっていた。そして薄汚く、染だらけになった夕暗のビロードの中に、薄鼠いろに、蒼白い腹をして、ほのかに光っていた。カナダ人は足を速めた。「モシモシ! ビル・ブルックさん! ちょっと電話をおかけになりません? カナダまでちょっと長距離電話はいかがでしょう? ……」(147〜148ページ)。
ハンブルクは死んでいる。死んだ街の中で、恐怖心がモノを活性化させる。
これを読んで不意に、吾妻ひでおを思い出す。『スクラップ学園』第1巻所収の「自販機さんもごくろうさん」。タイトル通り、ここで話しかけてくるのは自動販売機。雨宿りしている主人公に、
「ねーちゃん ねーちゃん
スゴーイポルノがありますよ
一冊どーです?」
「最近の自動販売機はどーなっておるのだ」
「コンピューターついてまして勧誘もやってるわけです
これどうですか
金髪ワニとニワトリSM編!」 [6]
この商売熱心な自販機は、「パトカーと自販機の正常位」という、バラード好みの逸品も売っている。この頃の自販機は元気が良かったな。
収録作品
|
街灯と、夜と、星 <詩集> 1946年
|
タンポポ <小説集> 1947年 ゆだねられた人びと
途上
都会 都会
|
戸口の外で <戯曲> 1947年 | ||
|
この火曜日に <小説集> 1947年 「雪のなかで、清らかな雪のなかで」
「そしてどこへ行くのか誰も知らない」
|
遺稿詩集
|
遺稿短篇小説集
| ||
1921年5月20日:ハンブルクに生まれる。父は小学校教師、母は作家。
1933年:ヒトラーユーゲントに入団するも活動はサボりがち
1939年:高等実科学校を中退。本屋の店員になる。詩作への興味。
1940年:演劇試験に合格し、地方劇団に入団
1941年:召集令状を受ける。無線電信手として東部戦線へ。
1942年:指に負った銃創が兵役拒否のための自演であるとして逮捕。軍法会議に。
→死刑判決→独房で3カ月→無罪
→郷里に送った手紙が国家誹謗罪にあたるとして告発→重禁錮4カ月
→伝令として再び前線へ。足の凍傷、黄疸、発疹チフスで入院
1943年:野戦病院へ送られる。療養休暇で故郷ハンブルクへ。
→部隊に復帰→熱病と肝臓病のため兵役に不適格と判断される
→慰問劇団に配属→除隊前夜にゲッベルス風の演説を行ったことがバレて逮捕
1944年:ベルリンの刑務所へ。体調悪化。9月に釈放されイエナの駐屯地へ。
1945年:フランス軍の捕虜になる
→移送途中でトラックを飛び降りて脱走→アメリカ軍に捕まる→釈放
→アメリカ軍の後を追うように600kmを歩き故郷ハンブルクへ
→友人と劇団を組織→体調さらに悪化→病床の人となる
1946年:1942年の獄中での経験を元に、初めての短篇小説「タンポポ」を書き上げる
余命1年と宣告され、退院して自宅療養
→物資不足の中、ありあわせの紙を使って原稿を書き続ける
詩集『街灯と、夜と、星』刊行
1947年:体調はますます悪化するが、原稿を書き続ける
1月、戯曲「戸口の外で」完成。2月にはラジオドラマとして放送。11月に初演。
→スイスへ転地
→11月20日、バーゼルの病院にて死す
短編集『タンポポ』『この火曜日に』、戯曲『戸口の外で』刊行
1948年:短編集『五月には五月には郭公が啼いた』刊行
1949年:『全集』刊行