トム・デミジョン『黒いアリス』

各務三郎訳、角川文庫、1976年


「トム・デミジョン」はペンネーム。
トマス・M・ディッシュとジョン・T・スラデック、二人のSF作家による合作で ある。

原題その他は、
Thom Demijohn, "Black Alice", 1968.


次々と謎が浮かんでくる本なのである。

  1. そもそも、なんでこんなマイナー極まりない作品が翻訳されたん だろう(それも角川文庫から「推理小説」として)?
    ──たぶんSFじゃなかったからだろう。
  2. なんでハヤカワ文庫のNVシリーズから出なかったんだろう?
    ──映画化されていないからだろう。
  3. なんで訳者に作者の略歴を教えてあげた浅倉久志が翻訳しなかっ たんだろう?
    ──ハヤカワ文庫じゃないからだろう。
  4. なんでスラデックは「ロデリック」という名前が好きなんだろう?
    ──たぶんスモレット [1] が好きだから。
  5. なんで最初の20ページほどまで、舞台が英国だと思いこんでしまっ たのだろう?
    ──後述。
  6. なんで舞台がアメリカだと思い直したのだろう?
    ──タクシーの料金が3ドル55セントだったから。
  7. これのどこが「推理小説」なんだろう?
    ──ここで答えるわけにはいかない。


5. なんで最初の20ページほどまで、舞台が英国だと思いこんでしまったの だろう?


合作なので、どちらがどこを書いたのか推測する楽しみもある。

「そうなの、とってもわくわくするのよ。いい、あたしが読んでた問題──両 親と子どもたちが出てくるんだから」アリスは声を出して読みはじめた。「お となの数は男の子より多く、男の子は女の子より多く、女の子は家族数よりも 多い。どの家族も少なくとも三人の子どもがいるとすれば、家族数はぜんぶで いくつか?」(63ページ)

こういうのは、ほぼ間違いなくスラデックの担当。


アリスは算数と科学と本が好きな女の子(上の家族数の問題もすぐに解い てしまった)。地理にはウンザリ。本家のアリスも地理は得意じゃなかった。

「前に知っていたことをぜんぶ覚えているか試してみようっと。ええと、四五 の十二、四六の十三、四七の──あらら、これじゃとても二十まで行かないじゃ ない! でも、九九なんて大事じゃないわ。地理にしましょう。ロンドンはパ リの首都です。パリはローマの首都です。ローマは──違う、ぜんぶ間違い、 だめよこれじゃ!」[2]

本家は算数も苦手だったようだ。こちらのアリスは地理は嫌いでも、知識 は正確である。

「……それでは州の首都の問題にしましょうか? アラバマ州の首都はどこ?」
「モンゴメリーよ」
「アラスカ州は?」
「ジュノーです。……」(48ページ)

本家のアリスは「とにかく妙な子で、ひとりでふたりになる真似をするの が好きなのだ」[3]
こちらのアリスは?

ほんとうに独りごとはいわなくなった。ダイナと話すようになっていたのであ る。ダイナとは空想世界の妹であり、またときには猫になった(8ページ)。

本家のアリスもダイナという猫を飼っている。[4]


アリスが受けた算数の教育について、彼女の家庭教師が語るところ。

「いまの子どもたちは、昔みたいに退屈な数遊びのかわりに、論理の構成をお そわっています。この新しい教育法は考える力をつけるのですが、とてもおも しろいのです。おまけに教えるほうも楽しいんですのよ」(62ページ)。

いわゆる new math 風のものらしい。というわけで、本家のアリスが苦手 な算数と、こちらのアリスが得意な算数とは別物なのである(本家のアリスも 論理学は得意だ)。こちらのアリスとは相性がよかったようだけど、小平邦彦 という数学者はこの new math が大嫌いで、

これは私の偏見かも知れないが、new math 流の教科書には現実の子供よりも 数学者の頭の中に描かれた子供、言わば公理化された子供を対象としている傾 向があると思う。子供から見た数学の難易の順序は、その論理的順序よりも歴 史的発展の順序によると思うのである。……。それを歴史的発展の順序を無視 して先に抽象的な数学を教えるのは子供にとっても先生にとっても時間と労力 の浪費であると思う。[5]

と書いている(この本の原著が刊行されたのと同じ1968年に)。アリスと その家庭教師にとっては「時間と労力の浪費」ではなかったようだ。しかし、 「現実の子供よりも数学者の頭の中に描かれた子供、言わば公理化された子供 を対象としている」という指摘は面白い。


注:

  1. Tobias Smollett (1721-71)。Roderick Random (1748) の著者。
    ドン・ウィンズロウ『仏陀の鏡への道』(東江一紀訳、創元推理文庫、1997年)にも登場する。

    そして、あった。信じられないことだが、中国南部、四川省の首都、成都の街 のまんまんなかに……トバイアス・スモレットの……『ロデリック・ランダム』 が! この世に神はいて、ぼくを愛してくれているのだ(358ページ)。

    ちなみに、スラデックには Roderick At Random (1982) という長編がある。

  2. ルイス・キャロル『不思議の国のアリス』(柳瀬尚紀訳、ちくま文庫、1987年)、26ページ。
  3. 同上、21ページ。
  4. 「ダイナ(Dinah)」は、本家のアリスのモデルになったリデル姉妹が飼っていた猫の名前。
  5. 小平邦彦『怠け数学者の記』(岩波書店、1986年)、286ページ。
    小平は初等教育における「昔みたいに退屈な数遊び」やユークリッド幾何学の重要性を力説する。『幾何のおもしろさ』参照。

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Last Modified : Dec 5, 2001