フィリップ・K・ディック(Philip K. Dick)あれこれ

ある数日間にまとめ読みした際のメモから。
ネタバレ的な箇所もあるので、未読の人は御注意を



  1. 『逆まわりの世界』
  2. 『流れよわが涙、と警官は言った』
  3. 『ザップ・ガン』
  4. 『タイタンのゲームプレーヤー』
  5. 『去年を待ちながら』
  6. 『ジョーンズの世界』
  7. 『ライズ民間警察機構 テレポートされざる者・完全版』

『逆まわりの世界』小尾芙佐訳、ハヤカワ文庫、1983年、380円。

(Counter-Clock World, 1967.)

ディックの中世哲学趣味に彩られた、そちらへの傾向が強すぎた作品。

「問題は知覚のそれである。われわれの知覚は限られている。なぜかというとわれわれは、ごく部分的な視界しかもっていないからだ。ライプニッツの単子論のように。わかった?」
「ああ」彼はうなずいた。
「いまにはじまったことじゃない」アンはいった。「プロティナスやプラトンやカントやライプニッツやスピノザの焼きなおしよ」(268〜269ページ)。

焼き直し。

[ToC]


『流れよわが涙、と警官は言った』、友枝康子訳、ハヤカワ文庫、1989年。500円。

(Flow My Tears, the Policeman Said, 1974.)

もっと混乱していて、もっと感動的な話だったような印象があるのだが。短編のアイディアを長編に引き伸ばしたような普通小説だった。ディックにしてはキャラクターが鮮明さを欠く。自分がどこにいるのかわからなくなるほどの圧倒的な力で引きずり回される宇宙論的飛躍を起こさないときのディックはさほど魅力的ではない。

双子の妹にして恋人でもあるアリスが死んだ後のバックマン警部の壊れ方は冴えている。自分が涙を流していることに気付かない、というシーンにも、給油待ちの黒人に「射抜かれたハート」の絵文字を渡し抱きしめる、というシーンにも無理がない。

[ToC]


『ザップ・ガン』、大森望訳、創元推理文庫、1989年。550円。

(The Zap Gun, 1965.)

赤いネオンサインを曳航するヘリウム気球船……摩天楼の頂上付近を飛びまわりながら、はてしなく宣伝文句をがなりつづけ(p. 62)。

『ブレードランナー』に登場する「OFF WORLD」飛行船の原型か?

パーサップスに安心感を与え、自分は生き延びられるとほんとうに信じさせることのできるのは、唯一、自分のかわりにだれかが犠牲になるのを見ることだけだ。だれかほかの人間が、身代わりになって死ぬことなんだよ(p. 101)。

キリスト教世界の法則。

リロ・トプチェフが、うずくまった姿勢で床に倒れている──完成はしたものの、なぜか廃棄処分にされたアンドロイドのようだ──それも、すさまじい高さから投げ捨てられた(p. 223)。

開いたドアの向こうに、骸骨に服を着せたみたいな、がりがりに痩せた男がすわっていた。くしゃくしゃに縮んだ、しわだらけの、しぼんだカボチャを思わせる頭が、モーターで動く機械のように、ゆっくりと回転している。目はまばたきひとつせず、その表情からはどんな感情もうかがえない。彼の体は、たんなる知覚機械だ。感覚器官はうまずたゆまずぐるぐる回りつづけ、データを収拾しているが、しかし、そのうちのどれだけが脳に伝えられ、記録され、理解されるかは、神のみぞ知る。ひょっとしたら、まったくのゼロかもしれない(p. 279)。

大技抜きのベイリーのような作品。迷路ゲームのアイディアは短編の使い回し。ディックはあまり気に入っていないようだが、一冊でもこんなSFが書けたら一生自慢できそうな作品。

[ToC]


『タイタンのゲームプレーヤー』、大森望訳、創元推理文庫、1990年。580円。

(The Game-Players of Titan, 1963.)

支離滅裂な作品、という前評判だが、それほどぶっ壊れた作品ではない。ゲームが人生の目的と化す、というところは『パーマー・エルドリッチ』(というよりも「パーキー・パット」)を連想させる。ただしこちらのゲームは敵がはっきりしており(タイタン人の穏健派)、勝ち負けの決着も着く。地球人のグループ内でのゲームは人生ゲームみたいなもので、土地の支配権および配偶者を巡って争う。

元ナチの東ドイツ人が発明した兵器のおかげで出生率が極端に低下している。ゲームは基本的に夫婦のペアで行われ、乱交状態を作り出し番(つがい)の相手をくるくる取り替えていろんな組合せを試す狙いもある。最大の「運」、大当たりは妊娠。この辺の発想は気狂いじみていていい。

プレコグをテレパスする、という敵の戦略を、ドラッグ(による抑制効果)と偶然性と天才サイコキネシス少女を利用して乗り越える、てな発想が素晴らしい。

機械に記憶力と会話能力を与える「ラシュモア効果」については説明がない。

[ToC]


『去年を待ちながら』、寺地五一+高木直二訳、創元推理文庫、1989年、580円。

(Now Wait for Last Year, 1966.)

夫婦関係へのオブセッションが色濃く現れた作品。惑星間戦争、ムッソリーニとリンカーンを足して二で割ったような国連事務総長、タイムスリップするドラッグ兵器、懐古的な物品のマニアックな収集と再現、自律的おもちゃ(走り回るちっちゃなカート)、擬態生物(ウーブの仲間)、精神病質の女、自殺願望を持つ男。

ディックらしさ丸出し。『流れよ我が涙』あたりに似た感触。文学度は高め、ということは重苦しくてうっとおしい。

[ToC]


『ジョーンズの世界』、白石朗訳、創元推理文庫、1990年、550円。

(The World Jones Made, 1956.)

プレコグ物。『逆回りの世界』タイプ。描写はだらだらとくどい。説明的。初期作品だから仕方ないかもしれない。

 彼女はメニューから口腔摂取用のヘロインを選び、パンチシート型のメニューをカシックにわたした。
 唖然とするカシックの目のまえで、ロボットは白いカプセルのはいったセロファンの袋をさしだした。
「そんなものを飲んでるのか?」カシックはたずねた(136ページ)。

後にディックが回想して苦笑いする、ヘロインを飲んでしまうシーン。

金星の環境に適応したミュータントを作り出し、金星へ送り込むという計画。秘密警察がジョーンズの「愛国者連盟」に権力をあっけなく奪取される。まるで地方の小都市の警察署が占拠されてしまう程度の、遠近法的スケールを欠くぺらぺらの描写の中で。

[ToC]


『ライズ民間警察機構 テレポートされざる者・完全版』、森下弓子訳、創元SF文庫、1998年、720円。

(Lies, Inc., 1984 ; originally published as "The Unteleported Man," 1966 : 1983.)

刊行履歴:訳書の解説(牧眞治)による。

  1. 'The Unteleported Man'(『ファンタスティック』1964年12月号に掲載)。
  2. "The Unteleported Man"(1966年、Ace Double の片割れ)。
  3. "The Unteleported Man"(1983年、バークリー社)。後半部を加筆したもの。3ヶ所の欠落部分あり。サンリオSF文庫版(『テレポートされざる者』、鈴木聡訳、1985年)はこれの翻訳。
  4. "Lies, Inc."(1984年、ゴランツ社)。加筆したものの改訂版。2ヶ所の欠落部分をジョン・スラデックが補筆している。
  5. 'The Missing Pages of THE UNTELEPORTED MAN'(PKDS Newsletter, 8, 1985-9)。ポール・ウィリアムズがディックの遺稿の中から発見した欠落部分。3のバークレー版に対応している。


背景はかなり怖い。

1982年、東西ドイツが統一され、新統一ドイツ(Neues Einige Deutschland)となる。

ドイツは統一の交換条件として、ソヴィエトとアメリカ双方の脅威・悩みの種となりつつあった中国を消滅させることを約束し、おそらくはクルップ社が開発した神経化学兵器(ナチス時代のツィクロンBの現代版)を用いてこれに成功する。そうしてドイツは強力な国家へと再生し、元SS隊員を父親に持つドイツ人の国連事務総長が誕生する。

この事務総長(ホルスト・ベルトルト)は地球規模の人口過剰問題の解決に積極的に取り組む。太陽系外惑星への一方通行テレポーテーション植民によって。

ドイツが神経化学兵器によって中国人を抹殺する、という設定は他の作品でも使われていたような気がする。『タイタンのゲームプレーヤー』だったっけ? と調べてみたら、そっちでは中国が放射線兵器を使ってアメリカ人(および結果的に世界中の人間)の生殖能力を奪ってしまったのだった。ただ、その兵器を開発したのはドイツ人(ベルンハルト・ヒンケル)ということになっている。

ディックには、ナチス風全体主義(ファシズム)への恐怖は目立つ。共産主義(人民中国)への不安も背景としては登場する。しかし、ソ連に対する否定的態度というのはあまり作品中に見受けられない。

とはいえ、こういう理想主義的な一節──

われわれのことを忘れるな、とベルトルトは静かに、穏やかな声でいったのだった。われわれは一九五〇年代、六〇年代になってようやく戦いに参加したのではなく、最初から戦いつづけていたのだから、と。ナチスを相手に命を賭けて、殺すか殺されるかの闘争をした最初の人々は──
 ドイツ人だった(332ページ)。

国連事務総長はテルポーの裏に潜む陰謀を知らなかった(「よいドイツ人」)、ということにされる(父親が元SS云々は、これ見よがしのレッド・ヘリングだったということになる)。

一方通行テレポーテーション(テルポー)は、主人公ラクマエル・ベン・アップルボームの父親の事業(超光速船による旅客・貨物輸送)に壊滅的な打撃を与え、父親は自殺した。会社の資産は差し押さえられ、唯一、一隻の恒星間宇宙船(オムファロス)だけが残っている。テルポーに疑念を抱き、自社事業の失地回復(そして父親の仇討ち)の念にも燃えるラクマエルは、オムファロスで18年かけて、国連推奨の移住地「鯨の口」へと旅立とうとする。タイトルでもある「ライズ・インコーポレイテッド(Listening Instructional Educational Service の俗称)」の支援を借りて。

国家の情報機関に取って代わる民間警察機構、という設定は『ザップ・ガン』にもあった(KACH)。CIAやKGBみたいなもの。情報収集・分析・操作、パイロットや電子部品の調達。



「いいことを教えましょう、ベン・アップルボーム。深睡眠なしでの十八年間、気分をまぎらす方法ですがね、わたしがこの一週間していたことを、おやりなさい」
 ドスカーは手をのばして、テーブルの上の革表紙の本をとりあげ、「日記を書くんです」と静かにいった。
「なんの日記を?」
「魂の。崩壊していく魂のです。精神病理学的に、興味深いものになりますよ」いまでは冗談をいっているようには見えなかった(100ページ)。
ディックと日記。「崩壊していく魂の」。
彼からいっさいの言語が消えた。すべての言葉を失ったのだ。脳のなかのスキャナーが、有機的な検索システムが、何マイルも何マイルも続く虚無のなかを調べまわった。だが保存されている言葉はなかった。ひきだして使えるものはなかった。スキャナーはさらに範囲をひろげて、なにものも見落としてはならじと、あちこちの暗い領域へくまなく触手をさしのばしていった。いまではどんなものでも欲しい、うけいれたいとそれは願って、死に物狂いになっていた。そうやって時は一年また一年と過ぎていったが、以前には言葉がどっさりつまっていたのにいまはもうない、からっぽの貯蔵庫しか見いだせなかった(140ページ)。

意外な展開で「鯨の口」へとテルポーし、LSD注入ダートにやられたラクマエルの世界。この後で彼はラテン語をしゃべるが、原書には訳は併記されていない。たかがパルプSFを読むのに、ラテン語の教科書と辞書を引っぱり出してこなきゃならないなんて。アメリカの高校生はラテン語を学習するのかな? SFファンは、量子力学や神経生理学やCIAの隠密行動や近世哲学などの知識の他に、ラテン語やギリシア語の素養も必要なのだ。

このLSD幻覚とパラワールドの訳のわからなさは、数あるディック作品の中でも群を抜いている。今では『火星のタイムスリップ』以上に見当識喪失させる。

『ユービック』に似ている。

サンリオ版の『テレポートされざる者』と比較すると、あちらの翻訳の杜撰さがよくわかる(訳者解説も80年代中盤の脱構築風潮のよい見本にはなっているが、ほとんど役に立たない)。

[ToC]


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Last Modified : Jan 18, 1999