全訳って?

「訳者あとがき」あれこれ


翻訳本はありがたい。翻訳者にも出版社にも感謝しないわけにいかない。翻訳書には訳者のあとがきが付き物で、中には不親切なものもあるけれど、大抵は「何をどう訳したか」教えてくれる。それを読んでいて不思議に思ったことを書いてみた。


ありがちで悲しいのは、こういうパターン。

本書は邦訳にして上下で一○○○ページになろうという分量なので、この日本語版では原書の巻末についているノートと参考文献および索引(全部で一○○ページあまり)は割愛せざるをえなかった。これは、もちろん読み物としてなるべくハンディーにしたいとの出版部の意向によるところである。読者のご寛恕をお願いしたい。[1]

がっくり。100ページの割愛のおかげで定価を100円くらいは安く設定できたかもしれないが、歴史的ドキュメントとしての価値は台無しになってしまった。「読み物としてなるべくハンディーに」の意味と意図もよくわからない。薄く安く手に取りやすい、ってことですかね。確かにそうした方が売り上げは向上するかもしれません。でも原著者の「謝辞」を読んでいると、これが果たして「読み物としてなるべくハンディーに」するのがふさわしい本なのかどうか疑問なのですね。原著者はこんなことを書いてる。

一九六七年にその著書『ドイツの原子爆弾』を公刊して、ドイツの原爆計画の歴史を初めて系統的にたどったのがアーヴィングである。しかし、後世の人間にとって同じように重要なのは、マイクロフィルムにおさめられ、いまなお貴重な彼の研究資料である。いつかは筆者も、自分の研究資料を同じようなかたちで残して、まだ未解決の問題を明らかにしようとする人びとに役立てられることを願っている。[2]

読み物としても優れた本だけど、歴史的資料の集積でもあるわけです。そういう側面をあっさり割愛しちゃうのはもったいない。「本書を機縁として読者各位にそれぞれ考えていただきたい」という訳者の願いが空しく聞こえます(註や参考文献は、考える機縁の宝庫なのに)。


全部訳せばいいってものでもない、やり過ぎの例。

原注にある書名、雑誌名については、何がなし、すべて日本語に訳してしまった。文献探しには、原語のままの方が便利だったと、今にして思う。[3]

その通り。気が付いたのなら修正して欲しかった(原書名の併記とか)。でも「顧れば、私が本書の翻訳の話をうけてから、早や二十年近い歳月が流れて」[4] いたらしいので、それ以上出版を遅らせるわけにもいかなかったんですかね。「何がなし」ってのは、「何にも考えずに」って意味なのでしょうか。


全部訳すってのはどういうことか、と言葉の意味について考えさせられる例。

本訳書は、Rudy Rucker の "Infinity and the Mind" 1982年の全訳である。……。なお、原書には多くの注が入れられていたが、必要と思われるもののみ本文に挿入して、他は割愛した。[5]

註を割愛しても「全訳」なんですね。「原文を全部翻訳したもの」が全訳なのだとすれば、註は「原文」に含まれないのですね。参考文献も「原文」には含まれないのでしょう、原著のものがそのままコピーしてあります(これは「すべて日本語に訳して」しまうよりは、ずっといい手です)。

この訳書は疑問の宝庫で、暇をつぶしたい人にはうってつけです。ここでは一つだけ。索引にある「ヒユンコン・トーマス」って、誰のことでしょう? [6]


「全訳」から索引が失われた例。

本書は、John Tytell, Naked Angels : the lives & literature of the Beat Generation (McGraw-Hill, 1976) の全訳である。……。訳注については、割注で簡潔を旨とし、したがって文学者、文学作品については、原則としてこれを省いた(原著にある巻末注および索引は、分量の関係で割愛せざるをえなかった)。[7]

索引は厄介物らしい。「全訳」を宣言する本でも、安易に割愛されることが多い。「分量の関係」というよりも、訳書に合わせて作り直すのが面倒だからでしょう。そういう場合、「全訳である」じゃなくて「訳である」と書いてもらえれば、わかりやすいね。


多少入り組んだ「全訳」の例。

本書はゲオルク・ブロイアー著 "Der sogenannte Mensch : was wir mit Tieren gemeinsam haben und was nicht" (Koesel-Verlag, GmbH & Co., 1981) の全訳である。……。ただし訳出にあたっての底本には、その英訳版である "Sociobiology and the human dimension" 《社会生物学と人間の次元》 (Cambridge university press, 1982) を用いた。……。英語版にはメアリー・ミッジリーの序文が寄せられているがページ数の都合で割愛した。また原書には二四四点の参考文献が挙げられているが、本書の一般的な性格からして邦訳書のあるもののみを巻末に挙げた。[8]

「序文」も落ちることがある。

この本の場合はちょっと事情がややこしい。英語版を元に翻訳したのであれば、素直に「本書は『英語版』の全訳である」と言ってもらった方が事情に即していると思う(「英語版」といっても翻訳ではなく、原著者が自分で書いたものらしいからには尚更)。「ページ数の都合」とか「本書の一般的な性格からして」とか、翻訳書の出版って障害が多いんですね。


アップデートされた「全訳」の例。

本書はそうした疑問にタイムリーに答えるべく、一九九七年一一月にアメリカで発売された "Apple : The Inside Story of Intrigue, Egomania, and Business Blunders" の全訳である。(ただし日本語版では内容をアップデートし、第16章の最後を書き換えるとともに第17章を書き下ろして一九九八年夏のiMacの発表までをカバーしている。)[9]

「日本盤のみボーナス・トラック収録」のCDみたいで、得した気分。いろんなものが割愛されて損した気分になることの方が多いけど、たまにはこういうこともあります。原著者が存命中なら「日本語版への序文」が追加されるケースも珍しくないです。


全部訳すことを放棄した例。

ありがたいことに、この日本では井口かおりという優秀な編集者がついて、本来なら原著出版段階で処理すべきこの刈り込み作業を引き受けてくれた。これによって、後半を中心に二割ほど削除された。というと、「なぜ全訳にしなかった!」と顔をしかめる方もおいでだろう。ぼくも高校生の頃はそうだった。でも、つまんなかろうと何だろうと全部出すなんて、編集の怠慢ではないか。[10]

編集者の役目は、不要と判断した部分をどんどん削除することなのかもしれない(ページ数との戦い)。この本(或る有名作家の言行録)に関しては、「二割ほど削除」されても余り痛いとは感じないです。これが或る有名作家の日記や手紙だったとしたら、「なぜ全訳にしなかった!」と怒るでしょうけどね。


注:

  1. 鈴木主悦「訳者あとがき」、トマス・パワーズ『なぜ、ナチスは原爆製造に失敗したか』下(福武書店、1994年)、466ページ。
  2. パワーズ、前掲書、455ページ。
  3. 玉泉八州男「訳者解説」、フランセス・A・イエイツ『記憶術』(玉泉八州男・監訳、水声社、1993年)、519ページ。
    あくまで日本語に訳されているだけで邦訳文献への参照があるわけではないから、この日本語化はほとんど無意味。
    例えば第3章の注71(442ページ)。

    E・パノフスキー『ゴシック建築とスコラ哲学』、ラトロウブ、ペンシルヴェニア、一九五一年、四五頁。

    ちょっと調べたら、こんな風に書けるはずなんですが。

    E. Panofsky, Gothic Architecture and Scholasticism, Latrobe, Pennsylvania, 1951, p. 45. 前川道郎訳『ゴシック建築とスコラ学』(平凡社、1987年)、45ページ。
  4. 同上、518ページ。
  5. 好田順治「訳者あとがき」、R. ラッカー『無限と心』(現代数学社、1986年)、323-4ページ。
    訳者に「必要」と思われなかった注の例をいくつかあげる(Rudy Rucker, Infinity and the Mind, Bantam Books, 1983. より)。

    (10) Joseph W. Dauben, Georg Cantor, His Mathematics and Philosophy of the Infinite (Cambridge, Mass. : Harvard University Press, 1979), p. 131. に引用されたカントルの手紙から。Dauben の本は、カントルの数学的思考と神学的思考との相互関係についての深くバランスの取れた記述を含む。……(p. 337)。

    (29) この概念の説得力あるドラマ化が、John Varley, The Ophiuchi Hotline (New York: Dell, 1978). ジョン・ヴァーリイ『へびつかい座ホットライン』(ハヤカワ文庫)で見られる。そこではヒロインの脳のパターンが記録され、彼女の古い身体からクローンされた新しい身体へと移される。ハードウェア交換の別の方法は、「物質転送」というSF的概念に絡むものである。この場合、人間の身体の正確な記述が抽出され(その過程で身体は破壊され)、コード化され、電波(またはタキオン)ビームによって送信され、デコードされ、新しい同一の身体の青写真として使われる。Robert Weingard, "On Travelling Backward in Time," Synthese 24 (1972), pp. 117-132. を見よ(pp. 345-6)。
  6. トマス・ピンチョン(Thomas Pynchon)のことです。
  7. 村山淳彦「訳者あとがき」、ジョン・タイテル『ビート世代の人生と文学』(紀伊國屋書店、1978年)、403-8ページ。
  8. 垂水雄二「訳者あとがき」、ゲオルク・ブロイアー『社会生物学論争』(どうぶつ社、1988年)、372ページ。
    「Koesel-Verlag」は原文では「oウムラウト」なのを「oe」で置き換えた。
  9. 山崎理仁「訳者あとがき」、ジム・カールトン『アップル』下巻(早川書房、1998年)、341-2ページ。
  10. 山形浩生「訳者(の片方)のあとがき」、ヴィクター・ボクリス編『ウィリアム・バロウズと夕食を』(梅沢葉子+山形浩生訳、思潮社、1990年)、185ページ。

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Last Modified : Oct 14, 1999