1938年(昭和13年)頃のものと思われる、弘文堂書房の宣伝用葉書より。


ゲルハルト版 ライプニッツ哲學著作全集影印本刊行趣意書

刊行趣旨
ライプニッツは、獨逸哲學の源泉であり又その典型であるに止らず、哲學的思 索の一つの範型となるまでに高められ深められた古典的思想家であること改め て縷説を要しない。然しライプニッツの偉大さが始めてその全貌を現して來た のは、我々が此處に提供しようとするゲルハルト編纂のライプニッツ著作全集 に負ふ。周知の如くライプニッツは生前その全思想を盛つた體系的主著を公に しなかつた。「刊行されたものによつてしか私を知らない者は私を知らない者 である」と自ら言つている。重要な思想は多く却つて手稿の斷片、書翰の裡に 埋蔵されたまゝになつている。これが明かにされることによつて既に偉大であ つたライプニッツは更にその偉大さを増した。洋上に浮ぶ峻々たる氷山が水面 下に更に巨大なるものを蔵することを明かにしたのである。ライプニッツのこ の再發見に最も寄與したのがゲルハルト版である。種々なる方面から企圖され 着手された全集中哲學的内容の最も豊富なる點に於て、校訂の最も嚴密なる點 に於て、各編に付せられた解題の親切なる點に於て、この版は最も秀れ、今日 ライプニッツの引用はすべてこの版に據るのを常とする。ライプニッツ研究が 一新時期を劃したのは本全集に負うと言つても甚だしく言ひすぎではない。然 るにこの版は既に疾く絶版になり、容易に入手し難く且つ極めて高價である (最近の彼地のカタログによれば二百五十馬克、邦貨三百五十圓と記されてゐ る)。近年完全を期した全集の出版がプロシヤ學士院によつて着手されてゐる が爾後十數年を經て未だ全四十巻中僅かに五巻が刊行されたるのみ、完成の時 期全く豫測し難く、假令完成するとしても極めて高價なる限定版であるため一 般の讀書子への路は殆ど閉ざされてゐる。加之、他の古い諸多の全集版と雖も すべて今では絶版になり、原文の容易に入手し得るもの僅かに「單子論」その 他一二の小册に止まる。近世の古典的哲學者の著作にして斯くの如く不遇なる ものなく、研究者、讀書子の不幸も亦言ふまでもない。かゝる情況の下に現在 に於ける最良の本全集を卓越した技術によつて新に寫眞複製版となし、至廉の 價を以て廣く一般の研究者に頒つことは確かに學界の期待に副ふものたるを信 ずる。唯、本全集の如く浩大なるものは廣く大方の支持なくしては成立し難い。 出來る限り多く攻學の士のこれを援助せられんことを願ふ所以である。且つ又 本出版は部數豫約應募者數に限る故にこの機を逸しては今後容易にこれを入手 し得られる機會のないことを顧慮して御同學知己をも御勸説、この擧に賛せら れんことを乞ふ次第である。

刊行原本
Die philosophischen Schriften von Gottfried Wilhelm Leibniz, herausgegeben von C. J. Gerhardt, 7 Bande, 1875-1890.


目下第一巻配本中 全七巻 各巻約六〇〇頁 菊判クロス製本・頒價各册・金拾圓 送料四十五錢

註記:現物は縦書。「刊行原本」の「7 Bande」の「a」にはウムラウトが付い ている(文字化けするので省略)。画像を参照


解題

これはつまり、ゲルハルト版哲学著作集全7巻をまるごと写真複製して出版 するという企画の案内葉書である。

その企画自体は、さして驚く程のものではない。筆者が驚いたのは、これ が日本の出版社による計画で、しかも時期は太平洋戦争直前、さらには、全7巻 が幻に終ることなくちゃんと刊行された、という事実による。

そんな話、これまで聞いたこともなかったのだから。

この趣意書が公表されたのがいつ頃か、正確な時期はわからないんだけど、 多分1938年(昭和13年)あたりと推測する。この葉書が、弘文堂から1938年に 刊行された本に挟んであった、という状況証拠が一つ。あと、文中に、「近年 完全を期した全集の出版がプロシヤ學士院によつて着手されてゐるが爾後十數 年を經て未だ全四十巻中僅かに五巻が刊行されたるのみ」とある。で、そのアカデミー版全集の6冊目(Reihe 1, Band 3)が刊行されたのは、1938年なのであった。

筆者は何も知らずにこの弘文堂版を買った(後に地震で倒壊する神戸の古 本屋で)。第1巻に目を通させてもらってOlms版のリプリントではないことを 確認し、オリジナル(Weidmannsche Buchhandlung 版)だと信じ込んで。

早速近くの喫茶店に入り、中を開いてみる。「あまりいい紙を使ってない」 とか「印刷が不鮮明」とか感じたけれど、「100年前の本だから」と気にしな かった。ダストジャケットに「¥10」の文字を見つけ一瞬戸惑ったものの、 「日本の出版社が輸入して配給してたのかな?」と合理化した。そして、第七 巻に付された奥付を見て 仰天する。

ライプニッツ哲學著作全集
影印本 全七巻
領價百四拾圓
昭和十六年七月十日印刷
昭和十六年七月十五日發行
發行所 弘文堂書房

脱力した。100年前のオリジナルを買ったつもりが、50年前に日本で作られ た複製のバッタもんだったのだから。がっかりである。

が、気を取り直して考えてみると、戦前の日本の出版社がゲルハルト版を リプリントしてたってのは、信じられないような話だ。ライプニッツ関連のビ ブリオや研究書でも、こんな話は噂にも聞いたことない。

ライプニッツ関連書物の再刊に取り憑かれた Hildesheim(ドイツ中部の地 方都市)の Georg Olms 書店がゲルハルト版のリプリントを始めるのが1960年。 それまでは上の趣意書にもある通り「既に疾く絶版になり、容易に入手し難く 且つ極めて高價」な状態が世界的にも続いていた。そんなお寒い情況の真直中、 この弘文堂の快挙(暴挙)のおかげで、日本のライプニッツ・ファンは特権的 に好きなだけライプニッツを読めるようになったのだ。

しかし、「近世の古典的哲學者の著作にして斯くの如く不遇なるものなく、 研究者、讀書子の不幸も亦言ふまでもない」ような状況だったという点を考え 合わせても、著作集全七巻の翻訳ではなく原著のフォトコピーをわざわざ日本 で出版するというのは普通ではない(翻訳には翻訳の困難があるにはせよ)。

ネパールの出版社がキルヒャーのリプリントを出すこともあるくらいだか ら、何が普通かと言われると困ってしまうけど、嘘みたいな話であることは間 違いない。岩波文庫の値段や郵便料金などから、物価はざっと1000倍程度上昇 したと推定して、今なら7巻セットで14万円くらいということになるだろうか。 「本出版は部數豫約應募者數に限る」ってことで、発行部数はどんなものやら。

原典に接する機会が得られるのは研究者にとっては確かにありがたいけれ ど、ライプニッツの研究者なんて当時何人いたんだろう? これ以前のライプ ニッツ関係の著作物をあげてみる。

数は多くないが、結構人気があったような印象を受ける。1980年代末にラ イプニッツは少しだけ流行したが、その50年前にも密かなブームがあったよう だ(岩波と弘文堂周辺だけ……?)。80年代の流行は工作舎の『ライプニッツ 著作集』(1988年刊行開始)で頂点を迎え、50年前のブームはこの弘文堂の 『ライプニッツ哲學著作全集』に終着した。

それにしても、なんでライプニッツだったのか。

河野与一訳で『形而上学叙説』、『単子論』を刊行した岩波書店の「哲学 古典叢書」シリーズは、引き続いて同じ訳者により『悟性論』(人間知性新論) と『弁神論』を出す予定であったが、残念ながら幻に終わったようである (『弁神論』の梗概は、河野与一『ライプニツ 単子論』(岩波書店、大思想 家文庫、1936年=昭和11年)で読むことが出来る)。

主著とは呼べないにせよライプニッツの底抜けの雑食性と大バカなアイディ アの数々を伝える大冊であるこの二作がもし予定通り刊行されていたら? そ してそれが戦後、岩波文庫に入っていたら?

当然の成りゆきとして、ヴォルテールの『カンディード』を愛読するよう なライプニッツ・ファンが何人も生まれていたであろうし、そこに描かれる超 越的楽天主義者パングロス博士としてのライプニッツは、「底意地の悪い天才」 ニュートンや「レンズ磨き」スピノザや「歩く几帳面」カントといった独創的 キャラクターと張り合うことも可能だったろう。

1949年に春秋社から出た園田義道訳『ライプニッツ論文集』(「クラーク との往復書簡」がページの大半を占める)を別にすれば、邦訳で読めるのは 『単子論』『形而上学叙説』と小編いくつか、という状況は、1987年(『人間 知性新論』米山優訳、みすず書房)まで続く。

1981年の増永洋三『ライプニッツ』(講談社、人類の知的遺産)のように いくつか翻訳を収録した解説書・研究書もあることはある。

その解説書・研究書がこれまた悲しいくらい少ないのである(これがデカ ルトやパスカル、ニュートン、カントならば到底素人の手に負える量ではない)。 最近(1997年)、白水社(文庫クセジュ)とシュプリンガーフェアラーク東京 からライプニッツ解説書が相次いで翻訳刊行されたのは珍しくもめでたいこと であった。1998年には、ドゥルーズのライプニッツ論(『襞──ライプニッツ とバロック』、河出書房新社)も翻訳された。

数学関連の巻がなかなか出ないので心配していた工作舎の『ライプニッツ 著作集』も、1997年に第2巻「数学論・数学」編が、1999年には第3巻の「数学・ 自然学」編が刊行され、無事に全10巻が完結した。弘文堂の『哲學著作全集』 以来の偉業であり、めでたいことである。


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1st edition : Jan 18, 1997
Last Modified : Feb 22, 2003