「備後府中 首無地蔵菩薩」『礼賛記』第12部>附記


『地蔵大菩薩礼賛記』第12部

附  記


一、銅製大香炉の寄進

昭和五十三年二月滋賀県草津市吉田茂七氏が初めて首無地蔵に参拝され長年の足の痛風がいえ、それを機縁に草津市周辺の人々が多数参詣され、あまたのお蔭を戴かれている。そのお礼にと草津市、青田茂七、吉田綱義、井関一一、中村龍三、白木はつえ、並に 栗太郡栗東町の太田春吉氏らが発起人となり昭和五十四年十一月より翌年の春にかけて滋賀県並にその縁故者二〇九名に話しかけられ、その寄進により高岡市の業者に銅製の大香炉を特別発注された。

四月十九日胴径九〇センチ、高さ六十四センチの香炉とそれを覆う高さ二七〇センチの銅板茸屋根を併せて自らの手で運搬、据付、奉納された。

四月二十三日午後一時香炉除幕式を行う。寄進者の除幕、栄明寺中村住職の洒(シャ)水の儀、読経、焼香と厳粛に式は進み御神酒、供菓の接待で午後二時めでたく終了す。滋賀県より関係者五〇名、一般参列者一五〇名に及び、この日めずらしく風が強かったが新若葉のふくいくと薫る中、地蔵境内は明るく晴れ上っていた。


二、礼拝堂建立

三年前、農道に質素に祀ってあった首無地蔵尊の霊験いちじるしく数知れぬ人々を救われ急激に参拝者がふえてきた。礼拝者の為に雨除け、日よけにテントで一時をしのいでいたが間に合わなくなり、信者世話人の間より礼拝堂建立の機運が高まり、既に集った賽銭等の浄財により、自発的に寄進を申出られた方は別として、建立のための募金は一切行わず建設することになった。

昭和五十五年五月二十一日午前九時栄明寺中村住職の祈祷により雨の中地鎮祭を行う。同年六月十一日午後五時上棟式を行う。中村宏海師の静かな読経により式は始まる。棟木までの高さ九米余の中間にしつらえた祭壇にはバナナ、夏みかん、塩、小豆、水等供う。午後五時三十分責任役員並に信者代表、大工による紅白の餅、清酒券、ビール券、菓子袋の投与が始まる。集まった府中の人約千人、異様な熱気であった。用意した一石二斗の餅三千六百箇は忽ちにして無くなる。その後工務店寄贈の二斗樽の鏡開き、一合桝による祝い酒を汲み交す。梅雨の一休みの晴れ間、幸いにして暑からず、三室山に日はまさに沈まんとし、うろこ雲にくまどられた西日がおだやかであった。

絶えまなく信者のあげる地蔵堂前め香煙は高く白く立ち上り明浄寺山の新緑にとどいていた。

昭和五十五年八月三十日礼拝堂は完成した。入母屋造り、総銅板茸屋根、白壁の美しい御堂である。今ここに名実共に首無地蔵尊のおわす場所が出来上った。

続いて同年九月十八日月例祭をかね中村宏海師以下五名の住職により盛大に落慶法要が行われた。当日の参拝者一万人を超える。


地蔵菩薩礼拝堂

 桁ゆき7m84cm
 奥ゆき13m72cm
 棟までの高さ9m50cm
 
 
 正面虹梁巾:37cm 長:5m09mm 厚:17mm
 本堂前虹梁巾:30cm 長:3m88mm 厚:17mm
 間張巾:46cm 長:3m88mm 厚:16mm
 
 
 台湾桧
 桁・梁・合掌地松
 格天井秋田杉
 間張肥松

虹梁彫刻
御調郡御調町三郎丸の彫刻家・古川三七雄氏の彫刻であり、模様は火災よけの意味を表わす。 波頭と瑞雲を彫ってある。裏面は青草模様である。

屋  根
0.35mm厚の銅板による一文字平葺
施工者・府中市中須町  広兼板金

設 計 者
福山市震町     畠   山   治

建築施工者
府中市出口町    楢 崎 工 務 店

総 工 費
26,187,590円也

世 話 人  府中市出口町  
長 谷 川 義 光(責任役員)
杉  原    茂
池  田  正 人
宮  奥  善 造
楢  崎  喬 造
高  山  隆 市
竹  口  正 明
枳  穀  弥 吉
児  玉  征 治
東     寿 男(信者代表)
杉  原    政
坂  口  正 人
平  川    明
藤  原  武 士