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首無地蔵物語


【記事名】首無地蔵物語
【筆者】杉原茂(宗教法人「首無地蔵菩薩」代表役員:当時)
【誌名】月刊「府中けいざい情報」平成5年〜6年
【発行】広島県府中商工会議所
【備考】 

執筆:平成5年〜6年

広島県府中商工会議所発行の月刊誌「府中けいざい情報」(平成5年5月〜平成6年10月)に掲載。首無地蔵の発掘以前の情況から発掘祭祀して発展してゆくまでの経過を詳細に記述したものである。



はじめに

首無地蔵は平成9年5月18日をもって、発掘祭祀してより20周年を迎える。科学万能の現代の世の中に、なお解明し得ない事柄は数多い。府中市の首無地蔵にまつわる不思議な現象もそのひとつである。

物質は肉眼で見、触るなどして、五官で認知し得るが、霊的現象は体験者以外には分からない。ただ疾病などで苦痛を訴えていた人が、神仏にすがり、痛みがとれ、あるいは医学的に見て症状が消えている場合に、第3者的に証明され、納得されるが、なぜそうなったのか経過は分からない。薬を飲んでばい菌を殺し、あるいは手術して患部を切り取り、痛みがとれるなどの如く、宗教的治癒にははっきりした過程は見えない。ただ信じて祈りその結果、好転したということである。

謙虚な医者は、科学の限界を知り、霊的な治癒をも否定しない。最近学界において、気功や針、さらには心霊治療など、心と体の不可分な関係をもとに生じる生命現象を、科学的に解明しようという、「人体科学会」が、平成3年に発足している。上智大学門脇教授他100名の会員で、東洋医学の身体観や禅・ヨガなどの研究、気のエネルギー、心霊現象などの超心理現象の研究など、西洋科学が正面から取り組まなかった種々の現象に取り組むという。

首無地蔵において生じている無数の奇跡的現象は、これらの恰好の研究対象と思われる。昭和62年度文部省科学研究費の援助を受けて、島根大学教育学部の鈴木岩弓教授が「首無地蔵を事例とした流行神の誕生」と題する学術論文を発表されたが、これは本質的心霊的な研究でなく、社会的な信仰現象の形成過程を明らかにされた論述である。

首無地蔵についての話は、不思議という外なく、常識を超えている。現実に府中市の北方、八ツ尾山の麓に、頻繁に生じている霊験は事実であり、不思議な現象ゆえに「現代の奇跡」として流布されている。

首無地蔵のお蔭をもらわれた霊験記「地蔵大菩薩礼賛記」は第17部を出版し、現在18部を編集中である。16部までに収録した霊験談は199話におよび、平安時代初から、室町時代末までの地蔵霊験を記した「地蔵菩薩三国霊験記」(貞亨元(1684)年発行)14巻、152話を超えている。礼賛記に記録した体験記はたまたま耳にふれたものだけであり、それ以外にどれはどお蔭をもらわれているか計り知れない。

現在、テレビ等マスコミにしばしば登場するのは、東では東京巣鴨の「とげぬき地蔵」であり、西は府中市の「首無地蔵」である。首無地蔵への団体バスによる参詣は、山陽路、山陰路は言うまでもなく、四国、九州、近畿に及び、信仰団体バスあるいは観光バスが府中市を続々訪れるなど前代未聞のことである。年間参拝客50万人を数える首無地蔵尊は、いかに府中市の知名度を高めているか、ありがたい存在であり、ここまでに至った 発展の経過を種々の角度から綴って見る。

1 首無地蔵の発掘

昭和52年5月18日の未明、府中市出口町の信仰深き老人(A氏)の夢枕に、お地蔵様が立たれ、「今、地中に埋まっているが、掘り起こして祀(マツ)ってくれ。願いごとは何でもかなえてやる。」とのお告げがあった。

老人が夢を見たのが朝の3時頃であり、大人の背丈で、絵に描いてあるような坊主頭の美しい姿であったという。老人は4時30分に起床し、いつもの如く、八ツ尾山(標高345.9m)の南麓の裾の洞仙の丘の畑の耕作に出かけた。単車で勢い良く急坂を登り、畑の入口には不要になった石垣用の一抱えもある石が十数個積み上げてあった。その石に乗り上げ、空中一回転して、単車もろともに畑にたたきつけられた。老人は、トラックの運転免許をもっており、かつては要人の乗用車の運転手をしていたこともあり、単車でへまをするような腕前ではない。その朝に限って、磁石で引きつけられるように、積石の方に向かったという。幸い体に傷を負うこともなく、単車もどこも傷んでいなかった。

入口に石があっては、今後も危ないと思い、梃子(テコ)で石を起こし、転がして3〜4m離れた農道まで運んだ。その時、軽々と運べたので、70歳近く(当時69歳)になって、こんなにまだ力が残っていたのかと不思議に思われた。その翌日、もう少し退かさないと危ないと思い、石を持ったが力一杯出さなければ動かず普通の重量感であったという。積石の底に地蔵石が埋まっていたのであるが、地蔵が地上に出現されんがために不思議な力が働いたとしか言いようのない出来事であった。

一番底にあった石は加工したと見え、四角く、恰好が良く、何かに使えそうなので、別の所に置いていた。一段落したので一服し、タバコを吸いながらその石を何に使おうかと考えていた。

その中、朝日が登ってきた。長年底にあったため、湿っていた石の表面が乾いて来て、よく見ると法衣の線刻が浮き出ていた。その時、朝方の夢を思い出した。この石は普通の石ではなく、地蔵さんであろうと思い、正夢であったのかと愕然とされた。

地蔵石をそのまま農道に置き、一度家に帰り、妻と共に新しいタワシ・バケツを持って再び丘に上がった。

ちょうど、八ツ尾山の麓を巡って、出口川から引き入れた農業用水路が畑のほとりを通っていた。その水で地蔵石を丁寧に洗い、お粗末にならないように、そっと農道に横たえていた。この時点でお地蔵さんを祀る気持ちはまだなかった。

翌朝、畑に来て見ると、石地蔵は立てかけてあった。散歩をしていた老人が「地蔵は転がしておくものではない」と言って立てかけたとのことである。近所の地主の老人(B氏)らしかった。石地蔵の足の方は欠けて不安定であり、石のかけらを詰めて安定を保っていた。

同じく近所の老人(C氏)が、散歩がてらに犬を3匹連れて通りかかり、「拝んでもらいなさい」と忠告した。

そこで山の下手の胡(エビス)町に住む、お大師を祭祀している中年の夫人に頼み、初めてお経を上げてもらった。昭和52年5月20日第1回目のお祭りであった。小豆めしを炊いて供え、すぐ上手の淡島明神の信者たち10名前後の年寄りが参列した。

祭祀に先立ち、地主(D家)の了解を得る必要があった。地主は岡山県阿哲郡大佐町の金比羅院に帰依しておられ、院の管長にお伺いを立てられた。管長(E師)は、真言宗派に属し東洋大学、立正大学の教授でもあり、国際アカデミー賞も受賞されたことのある碩学(セキガク)であった。4歳くらいの時から霊能力を備え、千里眼の持ち主でもあった。讃岐の金比羅宮より金の御幣をいただき、大佐町にて金比羅権現を祀っておられる。

相談を受けた地主は、悪い神なら高天原に帰ってもらうつもりで、金比羅院に電話した。「拝むのはよろしいが、そのままにして、ゲシの方に置いておくがよい。後から返事する」とのことであった。

地蔵を掘り出した老人の妻は信仰家であった。妻も自分の家の台所の壁に映った地蔵の姿を見ておられる。これは夢ではなく、目覚めていたときである。美しい女性のような、えも言われぬ神々しさであったという。現在地蔵会館の床の間に、観音の掛軸を飾ってあるが、その観音様を正面に向けた場合とそっくりの姿であったといわれる。

妻は、1人でも多くの人が地蔵さんのおかげを受けて、ニコニコと笑顔のある明るい毎日を送ってもらいたいと、『ニコニコ地蔵』と名付けておられた。

昭和52年6月、金比羅芦品講社が栄明寺で開かれ、E師が来られた。「その地蔵は『首無地蔵』と命名したがよい。苔打ち症であろうと、腰痛、足痛など何でも直してくださる」と言われた。地主の主婦は、赤い布を求め小さな幟(のぼり)を作り、出口町の書道家山脇氏が『首無地蔵』と墨書して、石地蔵のそばに立てた。

首無地蔵の噂はまたたく間に近所に伝わり、高血圧の老婆が日参3〜4日にして平常に戻り、リューマチで脛の曲がらなかった年寄りが、10日目には杖を捨てて平気で坂道を上下するようになるなど、毎月、月例祭を行うごとに不思議な現象が数多く出始めた。

老人が首無地蔵を掘り起こすまでに、様々な奇跡が生じている。

昭和52年5月より3年前のこと、老人はつまづき倒れて足をひどく打った。その後すねに水が溜まり始めた。脛が腫れてきたので、外科病院に行った。レントゲン診断の結果、切らねばならぬと宣告された。切るのが嫌なので、懇意な病院に入院した。40日間の入院中、水が溜まれば注射針で水を抜いた。水が溜まると痛くて歩けない。

40日経って多少よくなったので通院を始めた。その頃、老人と友人の西町のF氏が尋ねて来た。F氏は四国霊場巡りの先達であり、笠岡市沖のミニ88ケ所神島巡拝を薦めた。巡礼は初めてであり、しかもこう足が悪くては、とうてい山や谷などついて廻れないと尻込みすると「そういうことでは足は治らぬ。神島の土地を踏むだけでよい」と友人は叱咤激励した。

老人は友人に励まされ、ようやくその気になり、昭和52年3月初め、心配した妻も同行し、神島巡礼に旅立った。

笠岡港から渡し船で神島へ渡った。神島88ケ所は10里前後2日間の行程であり、野の石地蔵が多く、お寺のある所は3ケ所とのことである。

信仰に関心のなかった老人は、白衣を着るでなく、数珠のみを持ち、ビニール靴を履き普通の背広姿であった。霊場に一歩足を踏み入れると、気持ちはしゃんとした。「南無大師遍照金剛」を懸命に唱えつつ、皆に遅れないよう、足を引きずりながら杖をたよりに巡礼した。その夜は「周兵衛庵」に1泊した。かなりくたびれた感じであった。

2日目の夕方巡礼を終えて帰宅した。翌朝足の痛みが止っているのに気付いた。F氏が心配して、早速尋ねて来た。その時初めて足に触って見ると痛くも何ともない。くたびれも出ていなかった。普通であれば、悪い足で2日間の強行軍の後は、悪化するのが常識であるが却って良くなっている。

初めて老人に信仰心が湧然と芽生えてきた。足を医者に診てもらうと良くなっているという。しばらく注射を打ちに通っていたが、20日間くらいで、足についての医者通いは打ち切った。

神島巡礼を終えて間もなく、3月24日、府中市を出発して、13日間の四国88か所巡りを行った。この時は足の癒えたお礼の気持ちも込めて、白ズボン、数珠、金剛杖の白装束姿であった。完全に巡礼になりきっていた。この時もF氏が先達で、40〜50名の団体であった。老人はまだお経は知らず、般若心経を覚えたのは後のことである。

四国巡りは人より良く歩いた。先頭に立ってすたすた歩いた。足の痛みは完全に消えていた。

四国巡礼を終えて帰ってから10日余り後の5月18日の早朝、老人の夢枕にお地蔵様が立たれたのである。老人が作っている畑の中に埋れているお地蔵が、衆生済度を発願(ほつがん)され、老人の手を通じて地上に現われたまうたとしか言いようのない出来事であった。

2 地蔵発掘以前

首無地蔵石像は何時の時代に、誰が作ったものか一切不明である。確認できるのは大正5年(1916)、出口町新町在住のG氏(当時68歳)が、小学校へ上がる前、大正5年から8年にかけて4〜5回、親に連れられて地蔵参りした記憶があり、その頃既に首はなかったという。歯痛のため母に連れられて参り、よく効いたという。

現在の出口町の県道183号線(小畑・府中線)より約90m首無地蔵へ登った辺りは、出口町胡町辻高居370番地で、川上町のH氏所有の田があり田に続いてその東南洞仙の崖下に、新町のI氏所有の3坪くらいの野菜畑(辻高居371番地)があった。その畑の農業用水路を隔てた「げし」に、石地蔵が置いてあった。すぐ北側の上の田はJ氏所有地であり、農道はここで行き止まり、一間(1.8m)ほどの高さの「どうどう(この地方で水の落差の場所を言う方言)」があった。洞仙の丘はもともと山であり、昭和32年の秋に崖くずれをしている。

首無地歳発掘の場所の東隣りの田を大黒町のK氏が耕作されている。K氏も洞仙の崖下にあった頃の地蔵についてよく知っておられる。当時、粗末に扱うと、腹がにがる(=腹痛になる)ということで、お互いにさわりたがらず、恐れてはね合っていたと古老は言う。その頃から既に首無地蔵に霊的な力が備わっていたことを物語る。

農道に沿って、10軒が、夫々の土地の端を市に提供して、3m〜4m幅の市道が、現在の首無地蔵境内までの約200mにわたり開通した。道路建設を請負った土建業者は、各田の不要になった石垣石と共に、崖崩れで埋れていた石地蔵も一緒にして、ブルドーザーで押し上げ、上手のD家の土地の入口に積み上げていた。その前、石地蔵は、J家の田に祀ってあった。昭和12年、J氏が貸していた辻高居372番地の田を小作に出していたが、小作人が病気のため返還してきたので、J氏自身で農耕を始めた。J家の田より、上のL家の田に通ずる石段にこの石地蔵が使われていた。踏石にされるなどもったいないと思い、J氏は掘り起こし自分の田の畔に祀っておられた。

首無地蔵が掘り出された畑のそばに、大きな野壷があった。現在市道になっているが、直径1間(1.8m)、深さ5尺(1.5m)余りあったという。当時、耕作地の端、いたるところに肥溜めがあり、農家の屎尿をそこに運び溜め、米作りの肥料としていた。戦後、耕作しなくなって、この野壷も不要になっていたので、壷埋めに不要になった石を土建業者が投げ捨てていた。たまたまそれを目撃したK氏は、「石垣に使える。もったいない」と、捨てるのをストップさせた。一抱えもある40〜50ケの中一部をK氏は農道の崩れかかった場所の補強に用い、残り余り20ケぐらいを畑の隅に残していた。このまま石を野壷に捨てていたら、石地蔵も永久に埋められたかも知れない。

この後、残された積石の下から、老人が首無地蔵を発掘されたわけであるが、掘り出した当時、老人は、K氏とその処置について相談している。K氏は以前のことをよく知っているゆえ、「農道に置いてあげたらよかろう」と助言している。

首無地蔵が祀られ、人々が大勢参るようになって間もなく、K氏は重病にかかった。入院し手術を受けたが、出血多量であったので、医師は「駄目であろう」といった由である。入院中、妻が度々地蔵に参って治癒祈願をしている。入院3か月にして退院。5か月日には田植えをされた。今日では食欲も旺盛で仕事も普段通りされている。退院後はしばしばお礼参りをされた。

3 地蔵祭祀

首無地蔵が掘り出されたのが昭和52年の5月18日であるが、第1回のお祭りをしたのが5月20日であったので、しばらく毎月20日にお祭りをした。昭和53年3月より18日が掘り出した命日ということで以降、今日まで毎月18日を月例祭として、5月18日を年大祭とし、大祭には参拝者全員に記念品を贈呈するなどして盛大な祭祀が行われている。

府中市出口町川上にM女さんがおられる。首無地歳出現の当時、81歳であった。昭和49年頃から目まいがするようになり、高血圧と診断された。部屋の中でも、街中に出ても目まいでよく倒れておられた。昭和52年3月、用事を済ませた帰りに大黒橋上で急に目まいを覚えられた。交通が激しく危険なので、しばらく橋の欄干(らんかん)に腰掛けて休むつもりでおられた。目くらみのまま手さぐりで欄干の方に寄られた。欄干が低かったため、手を触れる前に足をとられて川底に転落、河石で頭を打ち1か月入院されたこともある。5月20日の第1回の地蔵祭りにお願いしてみようと思い、嫁に連れられて参拝。その日は幸い目まいも起こらず坂を登った。以後毎日1週間は若い者や嫁に連れられて参ったが、自信が出来て1人で参るようになった。お経も知らずただ手を合わせて一心に治癒をお願いしていた。外出しても目まいもなくなり、15日目には体に異常を感じなくなっていた。医者は血圧が正常になっているのを見て不思議がられたといわれる。血圧の高い時は200もあり息苦しかったが、以来1人でどこへでも安心して行くようになられた(地蔵大菩薩礼賛記第10部掲載)。

昭和52年6月2日の山陽新聞に山陽新聞府中支局長坂記者(当時府中支局長)の取材で「府中で首なし地蔵評判」の記事を載せられ、首無地蔵出現までのいきさつや種々お蔭をもらわれた人の話を紹介された。それから間もない6月17日に山陽新聞の岡山全県版の「心」という宗教欄に「流行神を現地に探る」と題して発表された。これがマスコミに取り上げられた最初である。

4 霊地

首無地蔵が評判になるにつれ、参拝者は日増しに多くなっていった。

洞仙の丘をめぐってなぜ忽然とこうした現象が生じたのであろうか。八ツ尾山(345.9m)の頂上から南斜面を観察して下ると、この線上に多くの社寺や祠(ホコラ)のあることに気付く。八ツ尾山城跡付近にまず妙見社がある。八ツ尾山は亀ケ岳連山から突き出た孤峰であるが、この線上北裏に七ツ池があり昔多くの堂塔を備えた青目寺(ショウモクジ)があった。現在は池下、山の中腹に移転しているが、寺と同時に日吉神社もあった由である。青目寺は弘仁4年(813)、青目上人の開基と伝えられ、数々の歴史、伝説を秘めた寺である。

八ツ尾山の妙見社は、境内の碑文に室町時代の末期、法華経を信仰していた山名和泉守が妙見大菩薩を祀っていたとある。妙見菩薩は、道教の北斗星信仰が仏教や日本の神と習合したものであり、北辰菩薩ともいい、この菩薩は、国土を守るのに優れた妙巧徳を現わし、諸星の王、神仙の仙、菩薩の大将として諸天神将を率いて諸国の王を助け、消災却敵(ちょくてき)、人民安楽の功徳をほどこすとされている。日本古代の天御中主神又は国常立尊(くにとこたちのみこと)が後代に妙見菩薩に比せられている。

妙見社より少し下ったところに早午大明神(画像)が祀ってある。七合目あたりでここの辺りから急坂となり、ここは水呑場であり、岩からの自然湧水である。

更に下って、府中八幡神社(画像)の100m上手に天狗松又は宮の壇という場所があり、天満宮の祭祉跡である。天満宮跡の西側の尾根に石槌権現と不動明王がある。石鎚権現は四国石錠山よりの勧請であり、明治14年頃と推定される。

府中八幡神社は嘉吉3(1443)年城代宮田政輝の創建と伝えられ、更に下った羽中に新宮神社があり、スサノオノ命を祭ってある。八ツ尾城の家老が、八幡神社の二の宮として建てたと言われる。

現在、祭祀してある首無地蔵の真上の明浄寺墓地内に淡島明神がある。本院は和歌山県にあり婦人病として霊験あり、首無地蔵の参拝のついでに多くの人が参っている。

そして首無地蔵である。出口町新町250番地のこの地に鎮座されるまでの経緯については後述する。

首無地蔵が埋っていた洞仙の丘は、八ツ尾山の南麓が流れて町に突き出た形をしている。洞仙の丘は北から首無地蔵、八天狗社跡洞仙観音洞仙薬師と南に順に並んでいる。

八天狗は、明治23年頃、胸部を患っていた石岡弥吉氏が、金毘羅神の信仰により病い癒え、社を建て、一時この洞仙の丘は参拝者で大いに賑わっていたが、昭和7年の失火で全焼、以後八天狗社への信仰は絶えた。

隣の洞仙観音も一時隆盛であった。文化財にしてもよい木彫の聖観世音菩薩が祀ってあり、明治の初め、30〜40年間全国を行脚修業していた菊岡伊三郎氏が府中に帰り、観音を守りっっ、昭和32年、87歳でこの世を去るまで数万の人を救っている。

洞仙観音の崖下に洞仙薬師がある。目を患い、失明寸前を一畑薬師より救われたN氏が一畑薬師より分霊して祠られたという。

八ツ尾山南麓の線上に、こうした数多くの祠があることは、まさしく霊地であり、首無地蔵尊が長く地下に眠っておられ、時至り突如掘出されて、衆生済度に目覚しいお働きをされている現実は、偶然ならざるものを感ずる。

5 受 難

拝んだ人の頭の痛みが消え、足の痛みが直った人が現われはじめて評判となり、山陽新聞の記事がこれに拍車をかけ、最初に岡山県より続々と府中市を訪れるようになり、地元でありながら地蔵の存在を全然知らぬ市民を驚かせた。県外の人は首無地蔵の場所がわからず、2・3時間をかけて出口町の洞仙の丘に辿りつく有様であった。帰依者も増え始め、賽銭や供米も多くなってきた。誰からともなく花が飾られ、菓子や果物、鐘が供えられた。6月のお祭りに、リウマチで歩行に難渋していた大工上がりの老人が、お蔭があると近所の人に誘われ、半信半疑で参った。接待のお神酒をコップに3杯いただき、帰りにさらに行きつけの酒屋で2〜3杯ひっかけて帰宅した。その夜はいささか苦しかったし、血便も出た。酒を飲み過ぎると必ず1日数回1週間は続けて血便があるのに、その夜は1回で血便が止まった。

何かを感じ取った老人は、それ以来朝の4時前、雨風にかかわらず参拝し、お経を上げた。

最初の場所は、何の施設もない畑隅で、年寄りの休む所とてないのを見て、老人は長腰掛を1個作って寄進した。皆に喜ばれたので足の痛いのを我慢して、更に1個を作って供えた。

7月1日頃より老人の足の痛みが薄らぎ始めた。そして老妻が大阪に出向いた夕方に自炊して、食卓に向かうと、今まで曲らなかった足が自然に曲った。痛みも消えている。全く不思議な体験に、大きな喜びが湧きあがった。日参して10日目のことである。長年の苦痛から解放された。なぜ直ったかの理屈はいらない。痛くなくなった事実がここにある。

新聞で首無地蔵の記事を読んだ数年間頭痛で痛む岡山市の主婦(44歳)が、参拝を始めた。後頭部がザクザクしてたまらず、自律神経失調症との診断を受け、針医者にも半月通い、片端から療法を試みたが癒えず、岡山県内の効目のあるといわれる地蔵にも随分通い拝んだがどうしても痛みがとれなかった。首無地蔵に参拝して3度目、7月20日の例祭日に参り、その夜は今までにない痛みが襲ったが、お経を繰り返し唱えていると、夜の白むと共にうす皮を剥ぐように痛みは消えてしまった。こうした現象は医学的には説明し得ない。

お堂を建てようという話が信者の間に持ち上がり、須屋もできあがったが建てる場所がない。仕方がなく農道に建てようとした所、猛烈な反対にあった。当然のことである。そのため、建立は延期された。首無地蔵を発掘した老人は世話をしきれなくなり、後事を近所のO氏に託した。O氏は出口町胡町の町内会第18組の者に諮り、9名でお守りすることになり、世話人会を作った。

ちょうど、地蔵を置いてある場所は坂道の市道のほとりで深くカーブしており、4m幅の道がここだけ5m幅になっていた。当時はそれから上手、30mほどで行き止まりであり、車の通行できる道ではなかった。

農道を1mほど突き出し、須屋の置けるだけの幅を確保した。

この場所も市道ということで後に立ち退きを喰うのであるが、府中市外より連日参拝者があり、団体バスさえ府中市に入ってくるし、府中市はじまって以来の出来事であり、市内にもかなりの金が落ちていること故と、しばらく黙認してもらった。

世話人会は、月例祭の準備や寄付金、賽銭、供米の収受等、多忙な日々が始まる。お蔭をもらったといって世話人を探し求めて寄付していく人が次々現われるようになった。

9月3日の朝、いっもの場所に石地蔵の姿が消えていた。2日の夜中、誰かが持ち去ったらしい。朝一番に参った年寄りが、拝もうとして見ると、『地蔵がおられない』と、それから大騒ぎとなった。信心し、心の寄り所としている大勢の人の対象物を盗み去るなど世の中には不埒(ふらち)な者もいるものである。いたずらにしては悪質である。

方々手分けして行く方を探した。世話人の1人、J氏は、毎朝白い大柄の飼犬を散歩に連れ出していた。その朝6時、いっもなら府中公園の庄之池あたりまで散歩するのであるが、その朝に限って、30m上手の分かれ道で、いっもとは反対の左手の農道に向かって犬はJ氏を引っ張っていった。100mほど行った細い農道より1間ほど下の田は、地主が耕作を止め、雑草を生やしていた。ちょうど現在地蔵会館の建っている場所である。

J氏はその雑草の中に、捨てられていた首無地蔵を発見した。早速持ち帰り、元の所に納め、皆ほっとした。これが庄之池まで運ばれ、もし池にでも投げられていたら永久に発見できなかったかも知れない。

持ち去った盗人は、地蔵の力で持ち切れなくなり、近くの田に投げたのであろうと、噂された。そして2度と持てないようにコンクリートで固めた。

昭和52年9月6日、真言宗十輪院主に願い、地蔵を掘出した地に遷座し、コンクリートで台座を高く固めて、その中に「南無地蔵大菩薩」と書いたご本体を埋め込んだ。台座に地蔵を安置し、銅板葺(どうばんぶき)屋根、総檜(そうひのき)造りのふさわしい地蔵菩薩堂を建立した。

昭和52年9月18日、月例祭も兼ねて地蔵堂落成の大祭を行った。参拝者はお堂の周辺にあふれ、香煙は秋晴れの空高く立ちのぼり、読経の声は丘にさわやかに響き渡った。早朝より夜にかけて1,000人の参拝者が数えられた。用意した接待の紅白饅頭500個、信者が供えたお菓子並びに1か月分のお供米4斗はたちまちにしてなくなり、当日の寄進者197名にお堂絵入りのタオルを記念として配布した。

子供は喜んで参り、年寄りはいうに及ばず親子づれ、若者、大人に至るまで日々の参拝者は各層に及んだ。府中市近郊はもとより、県外からも、早い人は早朝4時前、夜は10時前後まで続いた。休日は300人〜400人に達していたが、お堂落成後はこれが平日の参拝人となった。

当日の寄付金、賽銭は90万円あったが、これをもって大祭の費用一切をまかなうことができた。

ちなみにこの地蔵堂は、現在地に新しい境内敷地を確保して、新地蔵堂を建立したため、元町の栄明寺に寄付し、現在寺塀外の路上側にて6地蔵を祀ってある。

大祭のあと「地蔵大菩薩礼賛記第1部」を発行した。これは地蔵信仰によりお蔭をもらった人の体験談であり、霊験記である。平成5年10月現在16部まで続いている。

さらに「地蔵尊由来記」を出している。その後記に次の如く記している。

『昭和48年の石油ショックを境とし、高度成長期から一挙に低成長期に入った日本経済は長く尾を引き、企業の倒産は激増し、失業率2%、100万人を超え、一部業種を除いて、今なお、不安をおおいかくせない。

たとえ政治や経済の体系が変わっても、死に対する不安、社会不安、病苦、精神的苦悩等からの脱却を願い、安心を求める人間の願望に変わりはなく、人はそのより所を求める。

この地蔵尊が、今その求むる対象となっているのかも知れない。衆生済度(しゅじょうさいど)のために出現された地蔵菩薩であるのか、あるいは世間でいう一時的な流行神で終わるのか、現時点ではわからない。

だが、昭和52年5月20日以降、5か月の間に起き、なおかつ、起きつつある地蔵菩薩による不思議を超えた現象と、後に続く「地蔵大菩薩礼賛記」と共にこの事実を記録するものである』

参拝者が増えるにつれ、公害も増えてきた。何しろ初めてのことゆえ、手洗所の設備がない。人間の生理作用は我慢ができない。その辺の畑に勝手に放尿し、「野菜が枯れる」と苦情がでる。近所の世話人の家に飛び込み手洗所を借りるのはよいが、汚したりしていやがられる。空き袋やタバコの吸いがらを捨てる。市のある要人は、観光で人寄せもよいが、同時にゴミも持ってくるので、あまり歓迎はできないという。どこの観光地でも頭痛の種は、観光客の無造作に捨てるゴミである。観光事業を行う場合に並行してこの対策も講じなければならない。工場誘致にしても、人体に害を及ぼす業種もあるゆえ、同じことである。

この手洗所には頭を悩ました。手洗所を作るためにわずかの借地を申し込んでも、いやがられ断られた。市の主だった人々に、手洗所の借地のあっせんを頼んだ。ある人は何を勘違いしたのか、「『お地蔵さんが手洗所を寄付してくれ』と言っている」と言いふらしているのが耳に入った。寄付してくれなど言った覚えはない。府中市に外部から人が流入してきており、市の発展に大いに役立っと思い、お地蔵さんの世話は即ち市の発展に連なると考え、懸命に奔走していた。しかし他人は自分のことしか考えず、首無地蔵の発展をせらいも混ぜて傍観している空気も感じた。他人をあてにしていては捗らず、要人に借地依頼した件を断わり、自力で運営する決心をした。

その前、市に頼んだこともある。「市の発展になることであるから」と懇願した。場所は掘り出したところと、現在境内入口の中間あたりの市道が、片側が土を入れたままで整備されていないところがあった。反(の)りを根元から垂直に上げて埋めれば、便槽の3つ4つは設置できる。手洗所が建てられそうであった。臨時でよいから自費で整備するゆえ、その土地の使用を頼んだ。時の市長は好意的であった。新聞、テレビで首無地蔵が報道されるので、遠方の人がその場所の問い合わせに、市長の自宅に電話をすることもあったので、市長は理解を示した。ところが同行した担当職員が反対した。路上建築は違反である。法律を盾に「うん」と言わない。法を盾にとられてはどうともしがたい。この話も流れた。

その頃、中国電力(株)が、府中市の電力需要が増えたため、変電所の増設をしていた。今の首無地蔵の東隣の出口変電所である。土地を民間から買い上げ、建設まで遊ばせていた。建築にかかるまでという条件で、中国電力に手洗所の設置の了解を得て、簡易手洗所を据えた。地蔵の掘り出し場から、少し距離があり、不便であったがないよりはましであった。

2年後に現在地を購入して、真先に建てたのが地蔵本堂であり、便所であった。その他の建物は後からである。そのくらい手洗所には困った。

地蔵の世話をするようになってから、平気で公衆の場所にゴミを捨てる公衆道徳心のない日本人の多いことを痛感するようになる。

参拝者は玉石混交である。大部分の人はお蔭をもらおうと、真面目に参られるが、中には冷やかし半分の人がいる。多くの人が集まる珍しい場所となったので、見物がてらあるいはお供え物目当の人も増えてきた。特にお神酒(みき)をねらってくる。

冬の寒気の厳しいある日、地蔵堂の下の急な板道も凍りついて滑っていた。酒を飲んでいたらしいその輩の1人に、参拝者の婦人の誰かが笑ったといって因縁をっけた。笑ったのではなく、酔っていてそう見えたらしい。懐に持っていた刃物をかざしてその婦人を追いかけた。4〜5m追い、一番急な坂道のところで、その男は、ほどよく滑って転んだ。そして頑をひどく打った。それが元で2〜3日して死んだ。正しく天罰であろう。  また、無神論者がいて数人の参拝客を前に「こんなところで何のお蔭があるか」と演説していた。そして、市役所に出向いては、地蔵堂が市道に建っている非を挙げてなじった。こちらは、「市の発展になるから」と存続を願っていた。市担当者は、板ばさみになり、あまりにもしつこい法理論をかざす男に辟易し、ついに地蔵堂の立ち退きを要請してきた。

幸いP家のご好意により、土地を譲ってもらい、間もなくそこにお地蔵を移し、ごたごたは一気に解消した。

お地蔵の周辺で邪魔していた人々は、(病気などして、近寄れなくなり)いつのまにか1人去り、2人去り、排除されていった。

畑地だった150坪の土地に土砂を入れ、整備すると、広々とした境内地ができ、これでお地蔵様も、参拝者も伸び伸びと過ごせると一安心した。

次々と敷地に必要な建物を建て、受け入れ態勢ができあがると、不思議なもので参拝者が急増し、1年後には広いと思った境内も手狭になってきた。

6 地蔵を巡る諸説

さて、ここの首無地蔵様の石像はいつ頃、誰によって造られたものかはっきりしていない。相当古いものであることは推定できるが、造立の年代を知る手掛りはない。よってさまざまな説が立てられている。

[大戸氏]

昔、徳の高い人の作られたものとか、高徳の僧の墓とか、掘り出された当時いろいろと推測された。

府中市にも江戸時代有徳の人が存在していた。文化3年(1806年)大戸久三郎直純という出口村の庄屋が、57歳で死亡しているが、非常に慈悲深く、村民のため私費を投じて土木事業を行い、あるいは貧しい人々を救っている。直純の墓も首無地蔵会館の裏の真上の丘の墓地にある。また、大戸九郎兵衛なる慈善の志厚く、陰徳を施していた富豪もいた。

がこれらの人が作ったという確証はない。首無地蔵の存在が確認できるのは、ここ出口町胡辻高居の棚田を耕作しておられた出口町新町のG氏(故人)の証言である。洞仙の崖下の農道の溝上に、大正5年(1916年)から大正8年頃の間に、G氏幼少の頃、歯痛のため、4〜5回親に連れられて参ったといわれ、当時、既に首がなかったという。

崖上に洞仙の丘の崖道が通っており、丘上に祀られていたものが、転落して首が折れたとも考えられるがこれも想像にすぎない。

[八天狗]

洞仙の丘に八天狗の宮跡がある。八天宮と書く人もいる。ここに首無地蔵があったという人がいる。当時の古老の話では、本殿の鬼瓦が鼻が高い鬼面であったゆえ、八天狗と呼ぶのが正しいという人もいる。この八天狗の北裏側は崖に沿い、一面の竹やぶであり、このあたり墓地や多くの石地蔵もあったという。八天狗は明治3年(1870年)頃生まれの石岡彌吉氏が金毘羅神を信仰し、23、24歳の折、四国より勧請して祀ったもので、信者も多く発展していたが、昭和7年(1932年)の失火で社は全焼して途絶えた。社の外の墓地や地蔵はそれより以前からあったゆえ、首無地蔵が、何らかの理由で洞仙の丘下に移動されたと推測した方が妥当性が濃い。丘下に何年、何十年安置されていたか不明であるが、付近の農耕者が長年祀っておられたことは間違いない。

[山野町の地蔵尊]

首無地蔵とよく似た形の地蔵様が、福山市山野町に祀ってある。こちらは首のある綺麗な地蔵尊である。山野町の郷土史家で、日本画家でもあるQ氏が、首無地蔵に参られて、足の痛みが治りお蔭を頂かれた。と同時にQ氏の家の近くに首無地蔵の石像と同じ彫刻の石地蔵のあることに気付かれた。肩までの身長40cm、横幅14cm、厚さ11〜12cmで、首無地蔵に比べやや細身であるが、同一人が彫ったと思えるほど、石も彫りもよく似ている。山野町の地蔵はお堂の中に安置され祀られていたので、綺麗で損耗していない。首無地蔵は転々とする中に、手ももげ、衣のひだも磨耗したのではなかろうかと、Q氏は推量される。首無地蔵の左手の宝珠をもった跡は残っているが、右手の錫杖の手の跡ははっきりしない。

山野町の地蔵堂内の建造物から推定して、山野の地蔵は200年以前のものと思われ、同時代に首無地蔵も造られたと類推される。この形は、座像のものが多く、首無地蔵の如き立像は少ないといわれる。地蔵会館に飾ってある首のある地蔵の掛軸は、Q氏が山野の地蔵をモデルに首無地蔵と等身大に描かれている。

[八ツ尾城]

更に歴史研究に造詣の深いQ氏は、「福山市山野町に国吉城があり、三村城主がいたが、毛利氏に滅ぼされ、そこの国吉神社という祠(なぜここに祠があるのか不明)が国吉城の人々の霊を慰めるために建てられたことが判明した」と言う。

よくこうした例があり、首無地蔵も、八ツ尾城の麓を転々としているようであるが、最底200年以前と推定でき、八ツ尾城で命を落とした人々を弔うために祀った墓ではなかろうかとのQ氏の見解である。八ツ尾城は、鎌倉時代の建仁2年(1202年)、杉原光平(みつひら)による築城であり、790年の間、度々八ツ尾城を巡る攻防戦がある。代表的なものに北条時代末期、元弘の変(1331年)のとき、八ツ尾城7代城主杉原時綱が鎌倉に赴いている留守中、河内国の楠木正成(くすのきまさしげ)に呼応して、北条打倒に立ち上がった宮内村の桜山茲俊の軍勢により落城している。また、戦国時代毛利元就(もうりもとなり)が天文3年(1534年)八ツ尾城を本拠とし(時の城主杉原元康)、新市の亀寿山城主宮氏と9か月に亘る激しい攻防戦を展開している。亀寿山城主宮重信(みやしげのぶ)の病死により、毛利軍の勝利に終わるが、両軍とも相当数の死傷者を出しているようである。

こうした歴史を考えると、首無地蔵の石像が、八ツ尾山の南麓に流れるように突き出た洞仙の丘あたりに、戦死者を弔うために作られたとの見方も、まんざら根拠のないことでもない。現に八ツ尾山南麓、八幡神社下手の墓地に、武将の墓とも思える一石五輪塔やその他の場所に五輪墓が点在していることから八ツ尾城の秘めた事蹟が伺える。

[霊能者その1]

更にこの近辺の霊能力を有しておられると見られる2〜3人の霊示を紹介しておく。普通人の感性とは異るゆえに、信ずる信じないは各自の判断次第である。

出口町に、行をされているSさんがおられる。首無地蔵には、八ツ尾の峰々の神が大勢集まっておられる。この石は八ツ尾城の重臣の奥女中の墓である。石の袂(たもと)の形は女の着物の袂の形である。坊さんの衣ならもっと違った形をしている。

Sさんは、首無地蔵が出現される3年前の昭和49年に、既に女の神様が出現されるというお知らせを受けておられる。この女神は淡島さんとばかり思っていたが、それが首無地蔵さんであった。これは石鑓さんのお告げといわれる。首無地蔵堂のすぐ上の山に淡島明神がおられ、更にずっと上に石鎚神社が祀ってある。

首無地蔵が出られた頃、Sさんが約200mある参道の坂道を中腹まで登ったとき、振り向くと西空に雲が、城の形にチュッチュッと見事に描かれていた。しばらくの間であったが、お地蔵さんが描かれたといわれる。また、Sさんは「七ツ池は府中の『宝』であり、府中発展の基でもある」と言われる。

同じ出口町のTさんは、昭和52年5月18日の首無地蔵出現の2か月前、慶照寺山の元の火葬場の前の農道にある六地蔵の場所で、遠方から来られた年配の2人の母娘に質問を受けられた。「ある拝み屋から『府中の朝日さす、夕日さすところに、霊験いちじるしい地蔵がある』と言われてやって来た。それがどこにあるか教えて欲しい」と。

そして、「この六地蔵のある周辺は、『寺窪』という地名であり、八ツ尾山の両尾根の据に挟まれた凹地であり、朝日、夕日は差さない」と返事された。「では、どこでしょうか」と再度尋ねられたことをはっきり覚えておられる。『寺窪』から尾根裾を一回りした東側に首無地蔵を掘り出した洞仙の丘があり、ここは朝日も夕日も差し、遮(さえぎ)るものなく、1日中日の照る場所である。

霊界では、既に首無地蔵の出現を予告する動きがあったことを証している。

府中市で不動明王を祀っておられる行者U氏は「首無地蔵は長年地中で苦しまれ、世に出ようとされた。そして出られたゆえに、大変な力をもって人を救っておられる。よほど高徳の人が入魂しておられる」と。

福山市のV氏は、「地蔵堂の上方の土地に、古い石塔の石塊があることから推測し、仏塔の経過表に合わせると、恐らく中世紀以前の古いように思われる」と。

首無地蔵の石材については、一般に「花崗岩(かこうがん)ではないか」と言われているが、広島市安佐南区の広島市民俗資料調査委員の斎宗六氏(故人)は、モリブデン石かタングステン石であり、多分、黒雲母から見てモリブデン石らしい。朝鮮から来た古いものらしいと推定された。

石質については、専門家の鑑定を仰いではいないので、いずれとも断定しかねる。

地蔵菩薩について

さて、私達は「お地蔵さん」と親しみをもって呼んでいるが、お地蔵様とはどいういう方なのか簡単な考察をしてみる。

お地蔵は道を歩いていればいたる所でお目にかかる。村の入り口や分かれ道、あるいは道しるべに立っておられる。特に交通事故で人が死んだ場所には新しい地蔵が建立されている。

犬に小便をかけられ、石を投げられ、雨が降ろうと、風にさらされようと、昼夜立ちつくして私達を見守っていてくださる。お堂の中に安置されているお地蔵様は良い方で、大ていは野ざらしである。こうした苛酷な境遇に置かれながら、なお六道の一切衆生を教化されようとするお地蔵の誓願がある。誕生間もない幼児が死亡したとき、地蔵墓を作って葬ってやる。地蔵信仰を宗教と位置づけるには、あまりにも身近な生活の中にあり、宗教団体として普及せずとも、苦悩をもっ人々は、自ずと地蔵にすがって来ている。宗派にとらわれず、個人が随意に地蔵石を立てている。

学者の説によると、お地蔵様の本体は、この大地であるという。お釈迦様以前の宗教に、インドの婆羅門教(バラモンきょう)があり、地神とか、地天とかいって、偉大な堅固神として崇拝していた。この大地が一切の万物を生ずる徳があるのを見て、それを主宰する神様を地持神、地大神と称して崇拝していた。その神徳として、『偉大・堅固・不滅・生育』の四徳を挙げ、なかでも特に『生育』の徳を取りあげ、あらゆるものを出生し、生育し、繁茂し、ますますそのものを繁栄するよう功徳があるというので、インドの方々で盛んにまっられるようになったといわれる。これに対し、上方天空を守護される梵天がある。

従ってお地蔵様は、仏教以前から存在しており、お釈迦様が悟りの境地に達せられたとき、この地神が現われて、お釈迦様の悟りを証明したと、「過去現在因果経」等に出ている。

また釈迦入滅のとき「我入滅の後、弥勒出世のさきの衆生を付属す」と仰せられている。すなわちお釈迦様入滅後に、兜率天(とそつてん)で修業中の弥勒菩薩が56億7,000万年の後に、この世に降臨され、釈迦の説法にもれた衆生を救われるという信仰であるが、この無仏の間にお釈迦様に代わってお地蔵様が衆生を救済するよう頼まれている。

こうして釈迦の外護神であった地蔵は仏教の中に取り入れられ、地蔵菩薩となられた。

色々の菩薩がおられて衆生済度に働いておられるが、地蔵菩薩ほど力強い菩薩はおられない。地蔵は地獄を住家にして、地獄のどん底に苦しむ人をも救われるという。如来は天にあってかかる衆生に手は差しのべられない。地蔵はもっぱら罪人の友達となって、その者を救うべく、身も心も打ち込んでの慈悲心広大なる菩薩である。そして、『地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天上』の六道一切の衆生を教化すべく、休むことなく働いておられる。

日本に地蔵信仰はいつ頃伝わったのであろうか。

はっきりした時代はわからないが、おそらく聖徳太子(574年〜622年)の時代、すなわち飛鳥時代であろうと言われている。天平19年(747年)、光明皇后が立願されて、一丈の地蔵菩薩像建立を発起せられたと「東大寺要録」にある。

京都清水寺のお地蔵が、坂上田村麿(758年〜811年)を助けて戦に勝ったとか、平清盛、源頼朝、北条時宗、足利尊氏などが大変な地蔵信仰家であったという。尊氏は自分で地蔵の絵を書いて人にわけ与えたり、お地蔵を石に彫刻して辻々に立てさせたりしている。

日本中にある石地蔵は、腕がもげたり、腰が折れたりしたのをそのまま祀ってあるのが多い。あごなし地蔵、まっ黒地蔵、首切り地蔵、ほうろく地蔵、味噌地蔵、釘抜地蔵、腰折地蔵、縄目地蔵、蛸魚(たこ)地蔵、身代り地蔵等々、まことに痛々しい名前をっけて祀ってある。石像の一部が破損していても、地蔵尊の力は衰えていないから、即ちお蔭があるからそのまま土地の人は信仰しているのが実情であろう。

本論の首無地蔵も発掘されたときから首がないので、『首無地蔵』と命名されたが、「首がないので、首から上の病気にはお蔭がないのではないか」と、よく参拝者から聞かれる。

重い頭痛が即座に癒えたり、目や耳の疾患が治っている事実を見れば、石像の形状の欠陥には関係はないようである。石に宿る霊体がお地蔵の本体であり、霊視の備った人からの報告では、霊体は顔のある綺麗な女性の姿であり、あるいは絵にあるような錫杖を持たれた僧形であったりしている。これは1人だけの体験ではなく、すでに何十人もの人が霊姿を見ておられる。こうした現象は唯物論的には証明できないが、祈とう以前の苦痛が、祈とう後に解消している事実を見て知ることができる。1〜2人の治癒例ならば偶然として片付けられるが、首無地蔵発掘祭祀してより十数年経っている間に『地蔵大菩薩礼賛記』に収録されている首無地蔵によるお蔭の体験記だけでも200例以上ある。こうなると偶然を超えた何かがあると言わざるを得ない。

平安時代から伝わっている地蔵の不思議な話は、現代でもなお、生きていることになる。科学では説明できない領域があるということである。

7 マスコミの報道

首無地蔵を最初に掘り出して祀っていた場所は、拡張した市道より1m余りの高さの畑のほとりにあり、寄進者が次々と増え、奉納金の寄付札を道路に沿って建てたので、地蔵堂の後背の壁板の格好になっていた。岡山県笠岡市から参られた婦人が、たまたま地蔵堂を写真に撮られたとき、その横の寄付板に人の顔らしいものが写っていた。顔の輪郭はぼんやりしていたが、目、鼻、口ははっきりとやさしい顔に見えた。その場所に人はいなかったので、お地蔵さんのお姿だということで一時話題にもなった。

御饌米は増え、賽銭も多くなってきたので出口町胡町の町内会第18組の9軒が世話人会を作り、賽銭を数えて預金し、お供えのお米やお菓子は小袋に詰め替え、毎月18日(当初は20日)の月例祭に参拝者全員に接待していた。

(団体参拝の計画)

山陽新聞の首無地蔵の記事を見て、まず最初に岡山市の中鉄観光(株)から、団体参拝したい旨の電話連絡が入った。この丘の周辺どこにもバスを乗り入れる場所はなかった。当時駐車可能な所といえば、府中公園の庄之池畔の路上であった。そこから地蔵まで200m余りあり、現在の中国電力出口変電所の前の通りは、人一人がやっと通れる農道で、草に覆われていた。

参拝予定日になり、参拝募集したが、2〜3人の応募者しかなかったので、電車で参ってもらうことにして、バスの運行は中止した旨の連絡があった。

(テレビ報道)

秋の地蔵の賑わいも、冬に入り、霜が降り始め、寒風が丘を吹き抜ける頃になると、参拝者もめっきり減ってきた。「世間の言うとおり、このお地蔵さんも、一時的な流行神(はやりがみ)なのか」とも思った。しかし、「不思議なお蔭をもらう人が次々出てきている。府中にこんな立派な力強い仏様は珍しい。このお地蔵さんが繁栄すれば府中市の発展にもなる。このまま絶やしてはならない」と考え、ならばテレビ局にひとつ当たってみようと、福山市にある中国放送(RCC)を訪ねた。支局の山崎次長(後に広島本社部長)が快く会ってくださった。首無地蔵の由来を説明すると乗り気になられ、近く取材に行くと約束された。1週間ほどして、スタッフやカメラマン等3人がまだ殺風景だった丘に来られた。既にお蔭をもらっておられた数人にも集まってもらった。掘り出した老人が当時の状況を再現し、奇跡を生じた人もカメラの前で話し、カメラに納められた。

昭和52年12月23日、RCCテレビの夜6時から30分間、広島県内で放送された「ニュースシックス」の番組の中で、5分間放映された。これが全然関心のなかった府中市民に反響した。また広島県民への関心を深めた。

それから1週間後の12月27日、夜の11時15分から11時20分まで、TBS(東京放送)系のニュースロータリ番組にて、全国放送する旨の通知があった。意外な展開であった。まさか全国放送されるとは夢にも思っていなかった。首無地蔵はやはり奇跡をもたらされた。

夜の12時近い全国放送であったが、これが大変な反響を呼び、首無地蔵大発展の基となった。

真っ先に中鉄観光(株)がバス3台で参った。今度は十分な乗客があったようである。中鉄のバス参拝が皮切りとなり、以降バス会社が続々と来るようになる。

昭和53年の1月、霜の降りた寒い朝であった。地蔵の丘に登ってみると、遠方の参拝者が10人前後、地蔵堂の前で震えておられた。聞けば、「長崎県彼杵(そのぎ)郡の半島から、昨年末の首無地蔵のテレビを見て来た」と言う。おそらく広島県の不便な府中市を西の果ての長崎半島の人など、聞いたこともないのであろう。探しながら来られたに違いない。誰かが石油の空缶をもって来て、板切れを燃やし、暖房のサービスを始めた。テレビの効果の大きさをまざまざと知った。その後「テレビの全国放送を見た」と言って、山陰、四国、北陸などから、続々と府中市へ来られ、首無地蔵の霊験を受けられる人が続出するようになり、府中市の知名度を一挙に高めることになる。

(事例)

その前に、府中市でもかなりの人が地蔵のお蔭を受けておられる。ここでは特に印象に残っている故R氏の例を掲げる。

R氏は、荒谷村の生まれで、出口町川上に移住されていた。氏は生まれながらの頑健な体で、子供のときから病気などされたことがない。大正時代の若い頃、剣道4段の免状をとり、剣道の教師をしておられた。芦品郡岩谷村の村会議員を16年務め、広島県の畜産指導員を13年もされるなど、本業の農業は、家の者に任せきりで、公のために日夜奔走しておられた。腕に覚えがあり、田舎道で出会った数人の向こう気の強い若者とけんかになり、持っていた杖で、片っ端から打ち伏せたこともある。

体の痛みなど考えてもみなかったR氏も、寄る年波には勝てず、80歳の坂を超えると、頭痛持ちになった。毎朝目覚めると、頭痛がする。しばらく両側のこめかみを強くもまないと痛みが治らない。日中もキリキリと、痛みがしばしばおそう。特に雨の日がひどい。頭痛がひどくなると、めまいがしてくる。医者にもかかっていたが、血圧は高くもなく低すぎもしない。医者も病名がはっきりせず、効果的な治療の方法がなかった。若い頃、剣道を村の青年団に教えていたとき、自分が稽古台になり、相手の好きなように面打ちさせていたので、何十年かたった今、それが後遺症となって出てきたのではないかと思って、R氏はあきらめておられた。視力は多少弱っているものの、なおかくしゃくとしておられ、頭痛の深い痛みに悩んでおられた。頭痛薬も常時、体から放されたことがなかった。

昭和52年5月に首無地蔵が出現され、皆が注目し始めた頃の6月半ば、R氏は家の下手の食品店にたまたま立ち寄られた。

店に近所の人が来ていて、自分の足痛が10日間の日参祈願で、見事に治った話をしているのが耳に入った。

もともと、R氏は、無神論者であった。お寺や神社の世話は先頭に立って骨身を惜しまず働かれるが、心から神仏を拝まれたことはない。信心で病気が治るなど頑から信じておられなかった。この話を聞いたときも「おかしなことを言うものだ」くらいに思って家に帰られた。

昭和52年の秋も深まり、11月18日のことであった。朝、目が覚めるといっものとおり頭がきりきりする。一しきりもんで、起きあがった。午前8時半、家から真東に当たる方向の丘の上に幟がはためているのが遠目に見えた。洞仙の丘の地蔵堂は、R家の住まいの高台からよく見える。

そのとき何となく、お地蔵に参ってみようという気になられた。何かに惹かれるような気持ちであったという。あるいは4、5か月前の食料品店で聞いたお蔭話が耳の底に残っていたのかも知れない。これが縁というべきか、目に見えぬ地蔵の手引きであったのであろう。家からそう遠くない洞仙の丘に登られた。神仏の前でいつも嘯(うそぶ)いていたR氏も、そのときは、素直な心になっておられた。地蔵の前に額(ぬか)ずきお祈りをされた。参拝者を見習い、地蔵の石にさわり頭痛を治していただくよう祈願された。

家に帰って午後、いっものごとく昼寝をされた。午後の四時頃、好きな相撲のテレビの放映時刻である。目覚めると、急いでスッと起きあがった。そのとき「おやっ」と思われた。頭が妙に軽い。いっもと違う。目覚めると必ず、頭痛のため、頭を両手で抱えるようにして起きあがっていたのが、それを忘れている。あの痛みはどこに消えたのか。スキッとしている。今までのもやもやした重苦しさがきれいになくなっていた。そして驚きに変わった。たった1日のお参りで大変なお蔭を受けられたのである。

地蔵のすばらしい力に今さらのごとく感嘆された。鮮やかな治り方に無神論も完全に返上された。

それから毎日のごとく、地蔵参拝が始まった。ニコニコとしたうれしそうな顔のR氏を参拝者の中にみかけるようになった。

R氏は、昭和56年9月29日に大往生をとげられた。お蔭をもらわれた後の数年間は、もっとも安楽な日々であったようである。玄関で尻餅をつかれたのが原因で寝つかれた。床ずれ以外に別にどこも痛くなく、顔色が急変して、医者がかけつける間もなく、誠に安楽な往生であったと家人は申された。R氏のみならず、以後、数限りない人が地蔵のお蔭をいただかれるが、皆一様に安楽往生しておられることが注目される。

新聞やテレビの報道がきっかけとなり、首無地蔵への関心が高まり、府中市へ来る人が次第に増えていった。

(首無地蔵をめぐる動き)

昭和53年5月18日、首無地蔵祭祀1周年大祭を行う。

当日は大テント2基を畑中に張った。直径80cm、高さ2mの線香立ても設置した。朝の11時頃から終日大雨に見舞われたが、3,000人の参拝者で混雑した。栄明寺以下3人の住職による大法要を午前と午後2回行った。

青地に白抜きの地蔵十福の文字の入った記念手拭2,000枚を配布し、紅白の餅2,000個、キャラメル2,000個を接待した。

遥か遠く滋賀県の草津市から30人の参拝者があり、今更のごとく首無地蔵尊の名の知れ渡っているのを知った。

大祭の翌日は、参拝者がお供えした菓子袋を市内の出口保育所、和光園、さくら幼稚園にそれぞれ寄贈した。また老人ホーム静和寮には大祭手拭、キャラメル等、相当数を進呈した。

翌月の6月18日の月例祭には、早朝から切れ目なく参拝者が押しかけ、大テント2基では収容し切れず、身動きできぬ混雑ぶりであった。地蔵板は時ならぬ人の波が続き、準備した駐車場も車が満杯でどうにもならなかった。当日の推定で4,000人の参拝であった。

7月には、S氏ほか滋賀県草津氏周辺の信者一同が20本の幟を奉納し、「どうして滋賀県からか?」と府中人がいぶかしがった。府中その他からの奉納幟が数十本、洞仙の丘に青くはためく様は壮観であった。ひと気のなかった丘に忽然と生じた景観であり、これが府中の名所として定着していく。

地蔵赤堤灯100個の献燈もテントの周辺を賑やかに飾った。

8月の例祭には、その前に中国新聞、読売新聞が地蔵記事を大きく掲載したため、34度という猛暑にもかかわらず、3,000人近い参拝があった。その夜は出口町大黒の盆踊り会の皆さんによる奉納盆踊りがあり、赤堤灯の下で雰囲気は盛り上がり、見物人を喜ばせた。

9月に入ると秋めいてきて、33〜34度と毎日のように続いた昭和53年8月の熱気もようやく収った。この月、御調町倉戸のT氏(73歳)が、地蔵堂にて一心に般若心経を称えているとき、お顔のある美しい、背丈の高いお地蔵様の御本体を拝しておられる。

(清吟観月会)

仲秋の名月には地蔵前にて、清吟観月会を催した。ススキと団子を供え、詩吟、朗詠、歌謡、民謡等、40人近い歌手が美声を張り上げ、お地蔵様と名月へのよき奉詠となった。当夜、串団子を200個用意し接待した。

(団体参拝募集)

その年の春から広島市の広島バスが、首無地蔵と井原市の嫁いらず観音をかけて、毎月3回の団体募集を行い、毎月確実に参拝を始めた。これに習い、広島県、山口県、岡山県、山陰等の各観光バス会社が、競って団体参拝募集を行うようになり、大量のバス参拝ブームのきっかけを広島バスが作った。

(高校野球)

昭和54年(1979)の第51回春の全国高等学校選抜野球大会に当時の府中市立府中東高等学校が甲子園に出場した。府中市始まって以来の快挙であった。高校生出場選手全員が出発前に首無地蔵に参り、必勝祈願をした。初回の対戦相手は高松商業高校であった。3月28日午前8時過ぎ、NHK教育テレビは、郷土紹介で府中市を放映した。府中のタンス工場と首無地蔵のみを取り上げ、地蔵坂の登り口50本の奉納幟と地蔵と、高校野球部員の出場祈願の千羽鶴が鮮やかに映し出されていた。

8 滋賀県からの参拝

滋賀県からの参拝については先に少しふれておいたが、滋賀県信者との関わりが深いので少し詳しく記しておく。

(S氏の事例)

滋賀県草津市西草津のS氏(当時69歳)は、タイル左官業者であった。竹中工務店の仕事もしていたほどの腕利きであった。

冬などは職業柄冷え込みの厳しい戸外の場所での仕事の関係上、それが体にこたえたのか、両足指先の痛風に苦しんでおられた。就寝の際、掛け布団に足指がさわっただけでも、飛び上がるほど痛んだといわれる。それが20年間続いていた。もちろん左官の仕事はできなくなっていた。更に腰痛があり、その上に重い喘息に苦しみ、あらゆる医療機関で手当てを受けられたが一向に快方に向かわなかった。

たまたま昨年(昭和52年)12月27日の全国放送のTBS系のテレビを見ている時、首無地蔵が映し出され、偉大な御利益により、難病に苦しむ多くの方がお蔭をもらい、喜んでいる姿を見られた。そのときはどこの放送局だったか、チャンネルも見忘れ、ただ広島県とのみ覚えておられた。

S氏は、後日、一度参ってみようと思い、大津市や京都支局等のテレビ局に問い合わせたが、首無地蔵の所在地は一向に解らなかった。そのまま日が経過したが、無性に参りたく思い、草津市の寺の息子が広島県庁に勤めているのを思い出し、早速電話で問い合わせた。2月12日に「府中市出口町に祀ってある」との連絡を受けた。

ほっとしたものの、遠方の地であり、土地勘もないS氏にとって不安を覚え、誰か連れはないかと思い巡らしているとき、日頃懇意にしている同じ町の自転車屋の主人、T氏が中風で仕事もできずぶらぶらしているのに気付き、「首無地蔵のお慈悲にすがってみては」と、テレビで見たことを話し誘った。T氏も、「多くの方々が難病を治してもらっておられる霊験あらたかなお地蔵さんなら是非一緒に参りたい」と乗り気になられた。T氏は岡山県の出身で、隣の広島県のことは多少詳しいであろうと、S氏はT氏とともに2月14日に、尋ね尋ねて首無地蔵に参られた。当日は地蔵堂に3人ほどの参拝者がおられた。その人達にお地蔵様のいわれを聞き、S氏は両足指の痛みを、T氏は中風で手、足が自由にならないのを自由にしてもらうようお願いされた。

S氏は、遠隔の地であるため再三のお参りもできかねるので、お地蔵様にローソクや線香を日々あげていただき、寸志を受け取ってくださる世話人を尋ねたところ、筆者杉原宅を教えられた。

S氏は、筆者宅に足を運ばれた。筆者はちょうど出版したばかりの地蔵尊由来記と、お蔭の話を書いた地蔵大菩薩礼賛記が手許にあったので差し上げ、多くの方々がお蔭を貰われ、その方達が喜び、感謝の日暮しをしておられることを詳しく話してあげた。

S氏は帰り際に再度地蔵堂に参られ、よくお願いされて草津市に帰って行かれた。

その後、S氏の足の指先の痛みは知らず知らずの間に治って行った。T氏は帰られて間もなく、これまで中風で自転車のチューブ張りさえできなかったのが、修理できるようになり、お互いに首無地蔵尊の不思議な霊力に驚かれるとともに、「遠方から府中市に参った甲斐があった」と大変喜ばれた。

昭和53年3月31日にS氏は、お礼参りに府中市に来られるとともに、今度は、腰痛の治癒と奥さんの頭痛の平癒をお願いされた。S氏の痛風が治ったのが評判となり、町内の人達10人も一緒に来られた。

S氏の腰痛は1週間で消え、奥さんの長年の頭痛もうそのようによくなり、晴れ晴れと毎日を過ごされるようになった。

S氏は嬉しさの余り、町内の人はもとより、知人に自分の体験談を話し、難病で困っている方にお地蔵のお蔭をいただかれるようすすめ、折あれば府中市への道案内人となり、問い合わせがあれば、地蔵尊由来記や地蔵大菩薩礼賛記を見せてあげ、府中駅までの乗車する列車や乗り換え駅、地蔵堂までの道順を詳しく教えてあげておられた。

5月18日の首無地蔵祭祀1周年記念祭には、前日から府中市の大吉旅館に信者8人泊まりがけで参られた。S氏は、数々の難病を抱えておられ、腰痛のなおったお礼と次に最大の難病である喘息の平癒をお祈りされた。テレビを見てこられた時に初めて筆者と向かい合って話していると、その時一語一語とても息苦しそうな話し振りであった。

S氏が一緒に参られないときは、「明日、草津市の人が2〜3人参拝するからよろしく頼む」という電話が入る。そのつもりで待っていると、たいてい倍の人数でおいでになる。筆者宅で休憩してもらい、帰られると次の福塩線でまた数人参られる。これを度々繰り返し、夏はジュースを接待していたが、家内は「最初の頃の1日30人まで接待したのは覚えているが、その後は何人来られたか記憶がない」と言うくらい、滋賀県草津市の参拝者が日毎に増えていった。

滋賀県下のS氏の親戚や知人、友人が参拝してお蔭をいただかれたと80人余りの人が喜んでおられるし、S氏も嬉しさの余り、何かお地蔵さんにお礼をしたい一心から、幟の奉納を思いつかれ、S氏が発起人となり、隣家のW氏(後述するが、首無地蔵に参り心臓病がなおり、それ以後家族一家が信者となる)の協力を得て、奉賀帳を各人に回したところ、78人の賛同を得て、7月18日の月例祭に草津市信者一同で幟9本、大津市信者一同1本、栗東町信者一同で1本の合計11本の幟を奉納された。そして、この幟は前述したとおり、洞仙の丘の風にハタハタとはためき、府中人の目を驚かせた。

(Vさんの事例)

この幟を奉納された中の1人に草津市西草津1丁目のV(当時57歳)さんがおられる。

Vさんは10年前から頭痛と吐き気で、苦しみの毎日であった。ノーシンやセデス等の頭痛薬を服用されていたが、一向にはかばかしくない。ある時は、県成人病センター神経科で精密検査を受けられ、1月通院されたが相変わらず頭痛に悩まされておられた。「京都に良い神経科の医院がある」と聞かれ、診察を受けられたがここでもなおらない。日赤病院や医大の付属病院など大病院の診察を受け、薬ももらわれたが、一向に頭痛はなおらなかった。医師は原因不明で、「気にしないように」と言われたが、当人にとっては割れるような頭痛に気にしないどころではない。痛いものは痛いし、どの方法でもよい、痛みを消してほしい一心であった。憂うつな苦しい毎日を過ごしておられた頃、同じ町内のS氏から、広島県府中市に霊験あらたかな首無地蔵が祀ってあり、当人自身が大変なお蔭をいただかれ喜んでおられる話を聞かれた。その上、地蔵尊由来記や地蔵礼賛記も見せてもらったが、当時のVさんには全面的に信ずる気になれず半信半疑であったが、苦しい時の神頼みで「治してもらえるものなら何でもよい」と、S氏ら一行に加わり、4月17日に府中市に参られた。

Vさんは行きがけの新幹線の中で、激しい頭痛におそわれ薬を2回も飲まれた。同道していた娘が、副作用が発生して身体に悪いから薬を呑むのを止めるよう忠告したそうだが、「痛さには代えられなかった」と言われる。新幹線の中でのVさんの顔色の悪さや気分の悪さで、お参りできないのではないかと娘は心配したそうである。

どうにか府中市に到着し、洞仙の丘上の地蔵堂に参られ、頭痛治癒の祈願をされた。

帰路、あれほど苦しかった頭痛がいつしか薄らいでおり、心は知らず知らずの間に晴れやかになっている自分に気付かれ、Vさんはびっくりされた。帰りの新幹線の車窓から、山陽路の沿線の風景を眺めながら、「こんなに早くお蔭をいただくなど想像もしていなかったので、今までの長い間の頭痛の苦しみから開放された喜びは、口や言葉では言い表せない」と申される。

たびたび、首無地蔵尊の偉大なお慈悲に、精一杯の喜びと感謝の気持ちを表現しておられた。翌月の祭祀一周年記念には、10人余の人々とお礼参りに参拝された。以後毎日地蔵経をとなえ、晴れやかな日暮しをされた。

その同じ年の6月17日の参拝にVさんの長男と同道された。長男はスナックを経営しており、参拝の前日から、歯痛で顔まで腫れあがっていて、行きの新幹線では、すごく痛がっていたが、参拝を終え帰りの新幹線の中では、うそのように治っていた。その後のスナックの経営の売上げが、不思議に昨日よりは今日、今日よりは明日と延び、息子は母に同道したお地蔵さんのお蔭を大変喜ばれた。

更に不思議なことが続く。

Vさんの主人が以前世話になった市役所の人が、7月1日、心筋梗塞(こうそく)で入院され、4日後見舞いに行ったが、面会謝絶の状態であった。

Vさんが首無地蔵でお蔭を貰われた話をし、奥さんに首無地蔵に参るよう薦められたが、「主人の病状は危篤状態で、お参りできない」と申される。医者は2〜3日の命と思っていたようで、Vさんが翌日首無地蔵に代参された。いただかれた地蔵タオルを早速病人の胸にあてがわれた。

Vさんが代参されたことを病人に奥さんが伝えたらしく、「『うとうとしていて目を覚ましたとき、枕もとのスタンドがお地蔵さんに見えた』と言って、手を合わせ拝んだことのない主人が、初めて手を合わせ『南無阿弥陀仏』と唱えた不思議な現象があった」と、奥さんが話された由である。

それ以後、日に日によくなられ2か月で退院され、医者は「心筋梗塞で全治される例は珍しい」と不思議がったと言う。

奇跡ともいうべきこれらの事例は、草津市周辺だけでも数多くある。理屈では分からない現象がこの世に存在することの例証である。

(W氏の事例その1)

さらに滋賀県草津市の方で、ぜひ挙げておきたい霊験談がある。

滋賀県草津市西草津1丁目に、Wさんがおられた。昭和53年当時は55歳であった。

Wさんは、当時の国鉄(現JR)京都駅の助役(技術)であった。昭和51年8月頃から過労と高血圧のため、心臓病(心房細動と不整脈)になり、医師の手当てを受けておられたが、病状が次第に悪化し、昭和52年10月末から1か月間、入院治療された。退院後は投薬と食養生をしながら、勤務されていたが、またまた昭和53年2月に、1週間、静養を要する診断を受け、自宅療養を強いられていた。

Wさんはその後出勤し、技術助役の職務内容を接客関係の助役に変更してもらい、心臓病との闘病生活を続けておられた。その時「体が悪いということを最近知ったのだが、府中市に首無地蔵さんという霊験著しいお地蔵さんが安置されているので、そのお地蔵さんにすがれば、すべての難病を治してくださるからお参りされるよう」と、隣家のS氏よりすすめられた。更に続けていわく、S氏は20年前から痛風で、床に伏すとき上布団が足の指先にすれても飛びあがるほど痛く、色々の治療を施したが、治らず困っていた。その頃テレビ放映で、首無地蔵さんのご利益により多くの方々が、お蔭をいただかれ、喜んでおられるのを知り、広島県庁に問い合わせて住所を聞き参らせてもらったら、いっの間にか両足の痛みもなくなり、お蔭様で毎日楽に眠れるようになり、喜んでいる。「次は、腰痛を治してもらうべく、近い内にお参りに行くから」と誘われた。

W氏も「機会があればお参りさせていただくので、その時同道させてほしい」と軽い気持ちで言った。当時のW氏には首無地蔵についての知識はなく、積極的にすがろうという強い意志もなく、S氏との近所のよしみからの返事であった。

そして、数週間後、W氏の奥さんが、昭和53年3月20日の公休日にお参りに行くべくS宅に首無地蔵の住所や道順を聞きにうかがった。S氏は「今晩詳しく説明をしに行く」とのことであった。W氏は勤務先から帰宅して、そのことを知り、W氏自身は明日の公休日は妻を連れて、大津市の琵琶湖岸の温泉旅館に保養に行く予定にしていたので、「お参りは次の公休日でもよいではないか」と、妻を納得させていた。

そのことは知らず、S氏は、明日府中市に行くからといって、地蔵尊由来記と地蔵大菩薩礼賛記を持参してW宅を訪れた。「先日話したとおり、ご利益はたいしたものや。一緒にお参りした自転車屋のTさんは、中風で手がふるえ、チューブ張りができなかったのが、今ではタイヤのパンクの修理ができるようになったと喜んでおられる」と話しながら、S氏が煙草を吸いはじめた。とたんに何ともいえないよい香が漂い始めたのでW氏は、「変わった煙草ですね」と言って手に取って見たが、一般に吸われている「セブンスター」に過ぎなかった。吸っている本人には煙草の匂い以外別段変わりがないと言う。が、側で話を聞いていたW氏の奥さんや娘さんまでが、本当によい香がしていると言いだし、フロからあがってきた良男までが「よい香がしている」と言った。相変わらず当人のS氏は「煙草以外の匂いはしない」と言われる。不思議な現象が起きた。

W自身の臭覚の錯覚でもなく、家族一同が、一つの煙草に同じ香の匂いを嗅いでいるということは、「お地蔵様が是非来るようにお呼びくださったのだ」と思われ、明日の温泉行きをキャンセルして、首無地蔵さん参りに夫婦で行くことを決心された。

草津市から京都、京都から新幹線で福山市、福山から府中までの列車時刻連絡等を調べ、お参りの準備をされた。

翌日は、幸い好天に恵まれ、予定通り府中駅に到着、タクシーで掘り出した洞仙の丘の首無地蔵堂前で下車された。

地蔵堂の広場の土を踏んだ途端に、W氏の心臓が「スー」とする感じを受けてびっくりされた。急に心臓病のもやもやした重苦しさが消えた。

というのは、まだ病気平癒のお願いも何もしていない、始めての知らぬ土地柄のため、あたりをきょろきょろ見ていて、心臓のことなど眼中にまだなかった時のことである。

W氏にとってはて霊験あらたかなお地蔵さんのご利益とご慈悲の尊さに只々驚かれるばかりであった。

早速お参りのために持参したローソク、線香、お供物を夫婦であげられ、平癒を一心に頼み祈られた。参拝した後はなんとも言えない清々しい気分になられ、お地蔵さんの前の腰掛で休みながら、温かい春の日差しを身に受け、地蔵奉納のぼりのはためきを心地よく眺めておられた。昨日から今日にかけての不思議な現象を体験して、お地蔵さんのすばらしいお慈悲をいただかれ、夫婦で「今日お参りに来て良かった」と喜びあわれた。

W氏夫婦は当日の世話人から、地蔵尊由来記と地蔵大菩薩礼賛記第4部をもらわれ、感激しながら帰路につかれた。

その後、Wさんは不眠症で今まであまり睡眠ができなかったのが、よく眠れるようになり、食欲不振も解消された。心臓の調子も良くなり、体重も増えてきた。それから出会う親戚や職場の人は「2、3月頃は顔色もすぐれず、声に元気がなかったが、大変元気よくなられましたね」と言われるようになった。

奥さんは、10年来夜になると肩がつまって気分がすぐれないと言われていたが、首無地蔵参拝以来うそのように良くなり、「お地蔵さんのお蔭」と夫婦共に喜び、感謝の日暮しをされるようになった。

お地蔵さんへのお礼に、親戚、近所、職場の人々に由来記や礼賛記を見せて、心身共に困っている人には、お地蔵の慈悲にすがられるようすすめられた。

この年5月18日の祭祀1周年記念に家族そろい、他の方々と参拝され、心身共にすがすがしい気持ちになられ、新たな喜びを感じながら、地蔵の高徳のありがたい雰囲気の中に浸っておられた。

(W氏の事例その2)

それからW氏の日常は快適であった。体重もぐんぐん増え、半年後には約10kgも増え、1年後には20kgも増えるという快調ぶりであった。田んぼも少し持っておられたので、国鉄の休日にはみずから鍬を振われた。隣のS氏が目撃され、「W氏の鍬打ちには、普通の人と同じく力が入っている」と筆者に告げられたことがある。W氏は9人姉弟の末っ子で跡取りであったが、病気以来影が薄く、法事などで一族が集まったとき、皆から一番心配されていた。それが見違えるように元気になられたのであるから、近所の人も注目したのは当然である。

W氏夫婦は年に何回も首無地蔵に参拝された。家にはお地蔵様の写真とお守り札を祀ってご灯明をあげ、日々の息災を祈り、感謝の日々を送られていた。

昭和55年4月16日、単車に乗り、琵琶湖に魚釣に出かけられた。その日はW氏にとってはまさに悪日であった。

農道を走っているとき、信号機のない交差点で、無免許運転の高校生の乗用車が、バイクの後輪に激突し、W氏は5m余りはね飛ばされ、ガードレールに突き当たり、転倒した。唇を裂傷し、人事不省になられた。

警察が来て現地検証を始めたが、W氏が死亡していると思った警察官は、本人をほっておいて、事故現場の検証を始めた。その時、交通事故があったというので、見物に来ていた中の1人が「どなたですか」と声をかけた。「草津のWです。助けてください」ともうろうとした意識の中から辛うじて声を出された。尋ねた人は、運よく国鉄のW氏の職場の部下であった。こうした幸運は偶然というより、地蔵の導きというべきであろう。「被害者は生きているやないか。何をぐずぐずしておられる。早く救急車の手配を・・・」と部下は現地調査中の警察官に注意した。

ようやく救急病院に運ばれ、外傷箇所7針を縫われた。W氏は治療に際し、感覚が麻痺していたと見え、痛さを覚えていないと言われる。

その後は、記憶力をすっかり喪失し、見舞客の顔を見れば、「○○さんありがとう」と言って話しているが、見舞客が帰って30分程経って、「先程来た見舞客はどなたでしたか」と妻が尋ねると、「そんな人は知らない」と返事する有様であった。

入院2日目、妻が病院に来て「怪我後、何も食べていないですけど、何か食べますか」と尋ねた。するとW氏は「今、首無地蔵さんが口の中に小石を3つ入れてくださったので、お腹が一杯で何もいらない」と返答した。

このことはW氏は全く覚えておられないが、妻は首無地蔵さんが助けに来てくださったのだと思い、お地蔵さんのお慈悲に深く感謝し、早く治るように祈られた。

その後外傷は癒えたが、記憶力が優れないので妻は、「全治するのにどれだけの日数がいるか」と医師に尋ねた。

「3年ほどしないと普通の状態には戻れない」と医師は言った。気の遠くなる話である。

妻が悲運の涙にくれていたとき、長女の嫁ぎ先の伯母さんが、京都伏見にある病院の総婦長をしておられ、「W氏の交通事故の傷ならもっと早く治るのではないか」と言う。

長女や長男が草津救急病院長に交渉して、京都の病院に転医した。

転医して15日程たった頃、W氏の記憶力が回復し始めた。そして1か月日には、めでたく退院された。2週間に1回の通院でよいことになり、以前のW氏に戻られた。「“最初3年を要す”と言われたのが1か月で退院できたことは、お地蔵さんのお慈悲のお蔭」と、W氏は只々感謝の一念であった。

退院後一週間目に、首無地蔵礼拝堂の上棟式があったので、お礼のお参りを兼ねて、お祝いに夫婦で、近所の方々と一緒に参拝された。

今回の交通事故で死亡していると錯覚され、放置されていたのが、W氏の部下のお蔭で救急病院に入院できたことや入院2日目に首無地蔵さんが口の中へ小石を入れられたこと、救急病院を変わって、3年かかる全治が2か月余りで退院できたこと、そのうえ外傷等の痛さを知らずに今日を迎えられたことは、一重に首無地蔵尊の深いお慈悲のたまものと只々感謝されるばかりであった。(以上)