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府中市出口町 歴史の小径

洞仙観音

慶応4年(1868年)神仏判然令が出されるにおよび奈良時代以来の神仏習合がくずれた。神社からの仏像仏具または寺院からの神社関係器物の除去を政府が命じたため、特に江戸時代保護されていた寺院の特権は奪われ明治に入って数年間神仏分離をめぐる混乱紛争が全国的に起こり、ひいては廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)の激化をまねくにいたった。

府中市出口町に1270年の伝統を有する由緒ある甘南備神社にも、かつて聖観世音菩産(ぼさつ)が祭られていた。芦品郡志によれば「水野勝成公が寛永年間大旱魃(かんばつ)の時に祈願したところ効果あり」と記し、「往時社僧としては常福寺、神宮寺等の十余坊ありて栄明寺首座たり」とあるように神仏融合を物語っているが、混乱の余波は当神社をも例外とせず、聖観音像は石段下の参道わきカキの木の下に放置されたままであった。宮下に住む荒木という老女がこれをもったいなく思い、家に持ち帰り納戸に安置した。日夜拝むうちに老女の病気がなおりどこかに適当な場所に祭祀(さいし)するつもりでおられた。

そのころ、全国を修行して帰られた菊岡伊三郎氏が立ち寄られ、それ以来聖観音を守ることになり、一説によれば像を背負って土地を物色して歩いたが、当時の村長はこれに許可を与えなかったという。たまたま洞仙の丘に備中より分霊し祭っていたカサモリさんを返したほこらが空いていたので、そこへ落ち着かれた。菊岡氏は荒行をし法力をそなえられ、縁談、人生苦、病苦等すべて頼みに来た人を救い、その数、万を超えるという。祈とうに当たってはキツネつき等のつきものをよく落としたと付近の古老は今も語っている。

昭和7年、堂裏の八天狗より出火あり、堂の屋根に炎がかぶさってきた。伊三郎氏は堂にこもり「観音助け、ご利益を出せ」とどなられると、とたんに風向きが変わって類焼をまぬがれたと当時を目撃された氏の息子の嫁である菊岡コヨシさん(73)は話される。伊三郎氏は20年前88歳で自分の死期を予言して亡くなられてより参拝人はとだえた。今はコヨシさん一人ひっそりと祭っておられるが、後光を含めた全長1メートル67センチ、ハスのつぼみを手に持たれた黒光りする木像の優美な姿は、鎌倉期かあるいはそれ以前の作と推定される。重要文化財にしてもよさそうな像が人目にふれず府中市を見おろす小高い丘に慈光をたたえて、粛然(しゅくぜん)とたたずんでおられる。([追記]菊岡コヨシさんはすでに故人)

  みほとけのめぐみもたかき洞仙や 慈悲の光は千代にかがやく
この勧詠歌が観音堂内の正面にかかげてある。

(注)聖観世音=観音の一であり諸観音の根本なる故に聖観音という。相好円満で大慈悲心を表現し、宝冠中に無量寿仏を蔵し、左手に未敷蓮華を持ち、一切衆生の妙法蓮華の未敷なるを敷こうとする意を示す。餓鬼道を教化するという。

(写真:洞仙 聖観音菩薩)(略)

資料源:出口郷愛会「歴史の小径」(昭和57年5月10日発行)