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府中市出口町 歴史の小径

府中八幡宮

祭神は応仁天皇、仲哀天皇、神功皇后

八ツ尾山のふもと羽中の八幡神社はもともと現在地より百メートル上手の「天狗松」もしくは「宮の壇」と呼んだ目通、1丈3尺5寸の台地に天満宮として祀ってあった。この場所には昭和4年氏子が建てた高さ約1メートルの石碑が一坪の囲いの中にあり之に「八幡宮府内跡」と刻んである。

この社の創立年月はつまびらかでないが、芦品郡志によると嘉吉3年(1443年)に山名持豊の目代(もくだい)としてその将であった宮田備後守政輝が八ツ尾城に赴任し之を建立したことになっている。が同郡誌の別の箇所では八ツ尾城の守護神として室町時代の前期である応永の頃(応永元年は1394年)の創立と記し多少のくい違いがある。之はその前に天狗松以外の所にあったものか、或は年代の書き違いかである。更に「西備名区」には応仁の頃(1467〜1468年)に祀ったと記している。

それから降って戦国時代天文7年(1538年)に八ツ尾城主であった杉原理興(ただおき)が、神辺城の山名氏を滅ぼして神辺城に移ったために、それにつれ羽中八幡神社もさびれていった。

承応2年(1653年)8月14日郷民相計り社殿を現在の羽中山に移した。次で徳川時代に入り寛文12年(1672年)府中市(いち)の庄屋河面市右衛門直賢が願主になって、米金を募り之を20年余に亘って利殖し、元禄5年4月19日に起工して8月11日に竣工した。今の境内の末社天満宮がそれである。その後寛保2年(1742年)更に新らしく本殿を造営したが昭和36年(1961年)の火事で焼失、昭和44年(1969年)に現在の社殿が再建された。

現在の府中町が府中市村(いちむら)といっていた当時は氏子は100戸位であったが府中市の発展につれ氏子も急増した。

神社は海抜150メートル、石段の数390段、参道入口から神殿まで580メートルある。

祭神は応神天皇、仲哀天皇、神功皇后である。ついでに全国津々浦々にある八幡宮の由来を調べて見ると、その大本は豊前国宇佐八幡宮である。「榲原八幡宮誌」の著者河田晴夫氏の研究調書を要約引用させてもらうと、平安時代に書かれた扶桑略記には欽明天皇の32年宇佐郡厩峰の菱潟池のほとりに不思議な姿の鍛冶翁が現われ大神比義という者に神がかりして「我はこれ日本人皇第十六代誉田(ほむた)天皇広幡八幡麿(ヒロハタヤハタマロ)なり。我が名は護国霊験威身神大自在王菩薩という]と告げた。比義はこの神を敬い子孫代々お祭りし和銅5年に初めて社殿を鷹居瀬宮(タカイセノミヤ)に建てその後聖武天皇のとき現在地に移している。

又宇佐八幡宮御託宣集には、欽明天皇32年の祭の託宣に「辛国(からくに)の城(き)に始めて八流の旗を天下(あまくだ)して我は日本の神となれり」とある。

この伝説は北九州の一角に外国から渡来した者の子孫であるという伝承と採鉱鍛冶の特技を持った部族が住んでいてヤハタの神と称して多くの旗を立てて祭る神を氏神としていたのであろう。これが中央に勧請され京都、石清水八幡宮が創立され朝廷からも祖先神として尊崇を受けられる様になった。この時代すでに応神天皇を祭神としており、源氏が之を自己の氏神とする様になり、鎌倉の鶴岡八幡宮が祭祀された。鎌倉、室町という封建時代5百年間にわたり国政を司った人々が八幡宮を尊敬した結果、その下の人にも影響を与え八幡神の信仰は武士社会を中心として全国にひろがり、町や村々に祭られ敬まわれるようになった。

府中八幡神社の現在の宮司は皿海泰行氏である。

資料源:出口郷愛会「歴史の小径」(昭和57年5月10日発行)