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府中市出口町 歴史の小径

八ツ尾城跡

建仁2年(1202年)源頼朝並に頼家に仕えた杉原伯耆守光平が頼家のとき備後守護職として鎌倉より来り八ツ尾城を築いたと芦品郡志や沼隈郡誌更にはそれ以前の著書「西備名区」にもしるしてある。

八ツ尾山は標高345.9メートルある。建仁2年(1202年)源頼朝並に頼家に仕えた杉原伯耆守光平が頼家のとき備後守護職として鎌倉より来り八ツ尾城を築いたと芦品郡志や沼隈郡誌更にはそれ以前の著書「西備名区」にもしるしてある。

中世の文献が乏しいので之等の詳しい事跡は分らない。青目寺縁起には平安時代全盛であった寺も火災の難のため鎌倉時代に廃寺同然になっていたのを杉原光平が来り八ツ尾城築城後、寺の哀微を嘆いて二百五十石を寺領として寄進し復興に努めたとある。

更に西備名区は光平から光親まで十一代の城主の名をあげている。光親のとき天文の初め(天文元年は1532年)丹州に移ると芦品郡志には書かれているが丹波の郷土史家に照会したが当時の丹波に入国した形跡文献はないという。又一説には尾張に移住したことになっており之等について更に調査研究の要がある。(下記[追記]参照)

郡誌は山名時氏が康安2年(1362年)入城し杉原詮光が之を城内に迎へ、山名の別館を設け山名の将が城代となったと伝える。城は杉原に返したが事あれば山名が八ツ尾城を本拠にして戦った。山名が後、神辺城に移り杉原理興に滅ぼされるまで備後は実質的に山名の支配下にあった。

広島県史によると「椙原(すぎはら)泰綱請文」や「椙原光房奉書」「椙原親光注進状」等が尾道の浄土寺文書として保存されており、之等は八ツ尾城主に係る名前である。

尚杉原光平の子孫は御調郡木梨城主、山手銀山城主、神辺城主、土生村渕上城主となっており南北朝時代から足利、戦国時代にかけて目ざましい活躍ぶりが記されている。

八ツ尾山頂上本丸跡は現在草木の荒れ茂るにまかせてある、足裏の形をなして長い所で約53メートル位ある。二の丸、三の丸とおぼしきあたりも辛うじてその原型をとどめているにすぎない。まさしくつわものどもの夢の跡である。

項上を、雑木の覆った山人一人通れるわずかな細道が、旗立山、七ツ池の方向につづいている。恰も古へとつづく歴史の小径のごとく・・・・

 つわものの 鬨(とき)の声とも 城山に 吹く松風の 音のはげしき
                                 杉原 緑水

(写真:八ツ尾山全景)(略)
(写真:八ツ尾城跡)(略)

資料源:出口郷愛会「歴史の小径」(昭和57年5月10日発行)


[追記]
 その後の調査で杉原光親は、足利八代将軍義政の時代であることが判明した。文安年間(1444〜1448年)御番帳の5番に杉原彦太郎の名が見え、光親と認定される。即ち京都にて足利幕府の警固の任に当っており幕臣であったことが判る。
 豊臣秀吉の妻ねね(又はねい)は杉原氏の出であり、浅野長勝の養女となり、秀吉と結ばれた。ねねの父は杉原道松(定利)、母は朝日、祖父は杉原家利である。
 「家利の祖父の世より尾張の国の住人とはなりてけり」と新井白石の「藩翰譜」は述べている。この家利の祖父なる人物は処処調べたが、どこにも出てこない。が、八つ尾城主11代の杉原光親が年代的にも年齢的にも最も当てはまる。光親が京都より尾張に移住したと見ればつじつまが合ってくる。(平成9年1月)