「モヤさん」の人と自然の出会い旅\

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人と自然の出会い旅36

美しい山
2001年の夏、ネイチャーゲームのツアーでヨセミテ国立公園(アメリカ)に行ったとき、強く感じたことの一つは「この公園にはなんとゴミが少ないことか」いうことでした。公園レンジャーの手が行き届きそうな場所だけでなく、遠く離れたトレッキングルートのすみずみまでゴミらしいゴミがないのです。強いてゴミといえば、トレイルの中の移動・輸送用に使われている馬やラバのフンくらいのものです。キャンデーの包み袋も見ませんでした。公園レンジャーの努力も有るのでしょうが、ヨセミテを訪れる人たちのモラルの高さを実感したものです。
 日本の山(国立公園)といえば、山小屋のまわりにはゴミがうずたかくたまり、登山道のあちこちにゴミ・・・・・。その格差に、ため息がでてしまいました。  ところが今年(2003年)の夏、念願の東北の山を初めて歩いてみて、日本も捨てたものではないと認識を改めました。朝日連峰と月山を縦走したのですが、山にゴミがないのです。それはみごとなものでした。山小屋は、ほとんど無人の小屋です。ゴミ箱もなく、ただ「ゴミは持ち帰りましょう」のメッセージが掲示してあるだけです。管理人のおられない山小屋に全くゴミがないのです。片付けの下手な私の部屋など比べようが無いほど整然としています。小屋や小屋の周辺だけでなく、登山道にもゴミは有りません。ヨセミテをほうふつとさせるというより、それを上回っているように思います。ナイロン袋や各種パッケージはもとより、飴の袋やガムの紙のたぐいもほとんど見ることができません。故意に捨てられたものも、不注意で落としてしまったゴミも無いのです。
 夏すぎまでおられた管理人さんやボランティアさんたちの努力も有るのでしょうが、主要なルートだけでなく、滅多に人が通らないような(必然的に監視や清掃目的の人も通らない)所にも、無いのですから、登山者のモラルの高さなのだと思います。

 ヨセミテで、「日本ではとても無理」と思っていたのは、思い過ごしだったようです。この山で可能なことは、日本の他の山・国立公園でも可能なはずです。
 「どうして、この山ではかくもモラルが高いのか?」その答えは分かりませんが、山を自然をきれいに保つ人の動きを二つ見ました。
 
 一つは、月山にある自然博物園(ネイチャーセンター)訪れた時のことでした。ここでは、ブナの森のガイドが一日に二度行われており、是非このガイドを受けるべきだという、Sさん(山形のNG仲間)の強い勧めで訪れました。朝日の縦走を終えて月山にたどり着くと、何とか午後のガイドが始まる前でした。スタッフのYさんのガイドは、押しつけがましさもなく、それでいてブナの森の美しさ素晴らしさにどんどん気づかせてもらえる、自然案内でした。そのYさんが、案内しながら何度かスッとしゃがまれるのです。見ると、観察路上に落ちた小さなゴミ(飴の包み袋の切れ端だなど)を拾われるのです。私など、その存在にすらきづかなかったような小さなゴミです。フィールドに対する愛着が、自然に現れた姿であると見ました。このような心ある人の行為が、周囲の人々の気持ちに好影響を与えてゆくのだろうなぁと思いました。

二つ目は、早朝、月山頂上を目指して歩いていたときのことでした。大阪から来て前夜山頂小屋に泊まったという女性と出会ったときのことです。彼女は、登山経験は無い人で、信仰の山としての月山(出羽三山)に来られたようでした。何か願い(思い)を持って、羽黒山・月山と巡り、後は湯殿山へと向かっておられるようでした。なれない岩だらけの急斜面で大変そうでしたが、この山に有ること参れたことを喜んでおられました。
 しばらく話して、別れる直前、私が胸ポケットの地図を取り出していると、彼女がしゃがんで何かを拾っています。何かなと見ると。私が持っていた飴の包み袋でした。地図を出すときに、ポケットに押し込んでいたのが一緒に落ちてしまったようです。はっと、気がついて「それは」と手を出す私に、ほほえみながら軽く首を振って、ゴミをしまって下って行ってしまわれました。
 自分の出したゴミか他人の出したゴミか、そんなこと問題ではない、「この山にゴミは似つかわしくない」との思いだったのでしょうか。

その後の私も、山道で小さなゴミを見つけてもスッと拾えてしまいました。東北のきれいな山は、私の心に起こったようなことがそれぞれの人の心に重なった結果と言えるのかもしれません。日本中の山が、このようになってゆけば、なんと素敵なことだろうと思います。 
2003。9.7

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人と自然の出会い旅37

ブナの森の生命に会う
 2003年夏、山形の朝日連峰と月山を歩きました(出会い旅36「美しい山を参照)。多雪のために森林限界は低く、2000mを切る山がアルペンチックな様相を呈します。そして、その中腹はみごとなブナ林が取り巻いているのです。
 山行は、あいにくの天気(ガス時々雨そして強風)でしたが、時折ガスの切れ間から見える景色と、中腹のブナの森が心を軽くしてくれます。ブナの森は素晴らしい。明るく、林床には多様な生物が暮らしています。たくさんのキノコなど人への恵みも多いのです。その厚い落ち葉の層は、まるでスポンジのようになっていて、ろ過層として美しい水を産み。自然の巨大なダムとなり、自然災害を押さえてくれる。そこにいるだけで、心が静かになり満たされる。

 月山の自然博物園の方にブナの森を案内してもらいながら、色々な話を聞きました。ブナの樹の寿命は200年くらいだそうです。よくて250年から300年。しかも、ブナの樹は生まれて100年くらいはあまり成長しません。一気に成長しはじめるのは100年を過ぎてからだそうです。だから、ブナの森は極相林となっても、飛び抜けて幹まわりの大きな巨木はほとんどありません。どうして、そんなに寿命が短いのか・・ブナの樹は油質が少なくて腐りやすいからでしょうか。しかし、この寿命の短さが、ブナの原生林の豊かさ元気さを形作っている一因とも言えるのです。
 ブナの極相林では、大木の葉が太陽光を独占してしまいます。それでも、光りを通すブナの葉は、林床に多の木々の生育を許します。もちろんブナの若木も。ただ、ブナの若木は日照不足で充分には成長でず、幹まわりも太くなりません。それでも50年くらいまでは日当たりがなくても枯死せずに生きてゆくことができるのです。そのころやっと花を付けるようになり、実を付けるようになるのはさらに30年後の80年頃といいますから・・・「桃クリ3年柿8年・・・・ブナは80年」ですか。しかし、50年を過ぎると日照に恵まれない樹は枯れる率が高くなってしまいます。そんなとき、寿命や強風などで大木が倒れると、その木が占有していた上空が開け、「ギャップ」ができます。そこを目指して、それまで踏ん張っていた若木が一斉に成長をはじめます。その中から、次の大木候補が生まれるわけです。若木の時に成長が遅く日照不足に強いこと、寿命が短いことが、ブナの原生林を健康な森にしているとも言えます。自然状態で、老木もあれば中堅どころの樹もあり、100才未満の若木あり、芽生えたばかりの幼木ありの、バランスのとれた森になっているのです。また、倒れたブナはどんどん腐り、菌類に蝕まれるからこそ、キノコの豊富な森になるのでしょう。
 自然博物園に群を抜いて大きなブナがあります。樹齢は、300年を超えているのでしょう。博物園の「主」的存在で、ガイドの大切なポイントです。ところが、この樹にもついに最後が近づいているようです。樹勢が弱り、巨大な枝が折れてしまいました。出現したギャップには近くのホウノキの若木がこれ幸いと急速に成長をはじめていました。そしてまた、別の大きな枝が折れてしまいました。本体が倒れるのも時間の問題となってしまったようです。事故を未然に防ぐために、倒れる前に切ってしまうのがいいのか、長い人生(樹生?)とこれまでの、貢献に敬意を表して天寿を全うしてもらうべきか・・・博物園の人たちも悩んでおられるようでした。

 倒れた後、特別の運命をたどったブナの樹に会いました。今から15年あまり前に、羽黒山のブナの老木が2本倒れました。神社林の樹と言うことで守られていた為でしょうか、樹齢なんと600年。巨木ですが、ブナの樹は建築用材にも家具用材にもむきません。このブナの樹はチップにされる運命がせまっていました。そこに、この樹をムダにしたくないと強く願う人が現れます。片方の樹は樹の痛みが激しくいかんともしがたかったのですが、片方の樹はしっかりしていました。しっかりしているほうだけでも、何とか後世に残しておきたい、600年の営みをチップにしてしまいたくない。しかし、あまりに巨大すぎて製材してくれる所すらない。県外まで訪ね歩いてやっと、見つけて製材。乾燥し狂いができるのをまって、十数年の間だ寝かされます。
 
 今、この樹は月山頂上の小屋の食堂にあります。あまりに重いので、輸送用のヘリコプターで一度に二枚ずつしか運べなかったそうです。月山頂上小屋でさらに狂いをとって、1年前にテーブルに生まれ変わりました。太いところはそのままの幅でテーブルの天板に、幹の上部の細いところはつなぎ合わせて天板に。食堂中のテーブルが一本のブナからとれた天板でできているのです。せっかくの幹の幅をムダにしないように、精一杯削ることを避けたので、一枚一枚のテーブルの大きさが違います。食堂中が600年というブナとしては異例の樹齢を重ねた樹の、精気に満たされているように感じました。
2003.9.102004.4.6

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人と自然の出会い旅38
「象牙」がやって来た
  「もやさんは骨好き」というのは、ある種の誤解なのですが。(※「集まってくる骨たちのこと」参照)
おかげで、得することもあります。呉のネイチャーゲームの会のWさんが、「もやさんは、まだ骨を持ってるの」と聞いてきます、「持っているよ」というと、「それならマンモスの牙があるんだけどいらない?」というのです。「マンモスの牙?!いるいる!!」ということになりました。・・・聞いてみると、Wさんの知人で、瀬戸内海で底引き網漁をしている漁師さんの網にかかったものだそうです。

 現物は、長さ30センチほどで、象牙の一部です。見た目は、少し湾曲してますが、古木の風情です。表面の茶色の色具合や縦方向に入った細かいひび、折れ口が黒くなっている所、付着した珊瑚(といっても白くなった造礁サンゴですが)の様子、などなどどうしても、海の底から揚がった木に見えてしまうのです。いま、勤め先の学校に持っていって、おいていて、やってくる人に片端から「これなあに?」とクイズにして楽しんでます。教員も生徒もほとんどの人が、最初は「木でしょう」と言います。ところが、持ってみるとなかなか重い。ずっしりと来ます。すると、今度は「石?」とか「鉄??」とますます、正解から遠ざかってしまいます。このやりとりが、なかなか楽しいのです。

 ところで、「日本に象がいたの?」ということになるのですが、日本各地で象の痕跡が見つかっています。ただ、マンモスについては北海道だけのようですから、多分ナウマン象の牙だろうと思っています。
(※ちなみに、ナウマン象の名前は、日本でゾウの化石をはじめて研究したナウマン博士の名前にちなんでつけられました。博士は、ドイツの地質学者で、明治政府の招きで弱冠20才で来日した、いわばお雇い外国人の一人です。1875年(明治8)〜1885年(明治18年)の10年間に、東大教授として、地質学者の養成と、全国の地質調査を成し遂げた人です。(フォッサマグナの発見と命名も博士によるものです。)

ナウマンゾウは、日本を代表する氷河時代のゾウです。化石が発見されている場所は、日本と中国の一部に約180ケ所以上あります。約40万年前頃には日本列島に分布を広げていて、その後、日本列島で最も繁栄しました。ナウマンゾウは森林に生息していたのです。そのナウマン象の牙や骨格や歯が瀬戸内海から見つかるということは、当時、瀬戸内海のあたりには、森林が1有ったことになります。氷河期で、今の温暖化とは逆の現象で、海水面がかなり下降していたのです。実は、瀬戸内海は、日本有数のゾウの化石の宝庫といわれていて、底引き網に引っかかったものが、近隣の博物館などにもたくさん展示されているのです。

 ちなみに、漁師さんの底引き網には、おおつの鹿の角や骨もかかるそうです。ナウマン象もおおつの鹿も、当時の人たち(旧石器人と新石器人)にとっては大切な獲物になったようです。巨大なナウマン象(現在のアフリカ象よりは小さいようですが)は、狩猟も大変でしょうが、うまくしとめれば一頭で、膨大な肉が手にはいるわけですから、苦労のしがいもあったことでしょう。ただ、ナウマン象はおよそ2・3万年前に絶滅してしまいます。原因ははっきりしませんが、気候変動でしょうか、乱獲によるものでしょうか。

 この、牙の持ち主のナウマン象も、遠いご先祖様の誰かが、狩猟の結果倒したものかもしれません。この牙は、少なくとも2万年以上前のものです(このころナウマンゾウが絶滅しています)。ひょっとすると、数十万年前のものかもしれません。さわっていると、太古の森の記憶を感じます。そして、ほのかに匂う海の香から、数万年に及ぶ海底の記憶も感じます。森と海底を同時に感じる、何とも不思議な存在です。

ところで、底引き網という漁法は、ある意味、闇雲に海底に沿って網を引っ張るわけですから魚だけでなく、海底にあるものを何でもかんでもすくってしまうようです。底引きそのものは、うたせ漁として、江戸時代からあったものです。打瀬船(うたせぶね)は、帆に風をうけ、船を横に移動させながら、海底におろした底引き網を引いていたのです。400年前頃はじまって、日本全国にひろまって、波静かな内海で用いられたようです。ところが、強力なエンジン付きの船の出現で、それまでなら網が引っかかって前に進まないような状況でも引き回せるようになりました。資源保護の観点からは、問題の多い漁法な訳ですが。海底のゴミを回収する事もできます。(もっとも、漁師さんにとっては、ゴミを持ち帰っても個人的な利益にはならないので、そのまままた海へ・・・ということになるようなのですが。そうでない人もいて、持ち帰り処分している漁師さんたちがいます。この,牙もそのような人に拾われたのでしょう)

 ひょっとしたら、数万年前にナウマン象が絶滅したのは、人間のせい。今また、人間のせいで、海を枯渇させてしまっているのかもしれません。「持続可能な」あり方が、あるような気がします。それは決して、人間の生活にとっても、マイナスではないはずなのですが。
(2003年10月27日記)

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人と自然の出会い旅39
オコジョに出会う
山に出かけることの楽しみの一つは、日頃は目にすることの少ない野生の生き物に出会うことです。「野生」・・・人に飼われることなく独自に生きる・・・動物は、それが町中であっても、独特の品格を持っているものです。まして、自然度の高い山の中でしか会うことのできない生き物となれば、出会いの歓びは格別です。

ネイチャーゲームに「はじめまして」という活動があります。一人一項目ずつ、自然に関わるインタビューをしあうというものです。インタビューの項目の一つに、「森のなかで動物にであったことがありますか?・・・その動物は?」という項目があります。この質問をぶつけられると、森の中で出会った生き物たちのことが、その時のワクワク感と一緒に次々と思い浮かんできます。それは、カモシカとの出会いだったり、クマだったり、ライチョウ、タヌキ、キツネ、ウサギ、クジャク、シカ、キツツキ・・・だったりします。その時の雰囲気で、その中の一つを紹介します。

これからは、オコジョが加わりそうです。実は、初オコジョは1973年のことですから、30年も昔のことになります。初めて北アルプスの縦走をしたときのことでした。単独縦走で、中房温泉から燕岳〜大天井(おてんしょ)岳〜槍ヶ岳と通称表銀座を楽しんだ後、さらに穂高岳・西穂高岳へと向かいました。今夜は南岳の避難小屋に泊まろうと、歩いてた夕刻のことでした。9月の末のことで、予定した雪渓は消えてしまっていて水が補給できずに、がっくりしていると、降り出した小雨は初雪になって舞いだします。一人ですし、翌日は大切戸(きれっと)といかにも恐そうな地点を通過する前でしたから、少々ブルーが入ります。そんな時でした、ガレ場を小さな生き物が身軽に走って、ふと止まると、こちらをちらっと見て、また岩陰にかくれてしまいました。オコジョでした。
 
オコジョは、食肉目イタチ科、別名ヤマイタチともよばれます。頭胴長、15〜20cm本州では中部山岳地帯より北に分布しています。ふだんは、1500m以上の亜高山帯にすんでいます。夏毛は背面が茶色で、腹面が白色。冬毛は全身が白色に変わるが、尾の先だけは、夏冬ともに黒色だそうです。南岳であったオコジョは、まだ晩秋でしたから夏毛のオコジョでした。少々心細く思っていたときでしたので、そんな小さな生き物との出会いが妙にうれしかったものです。しかし、雪の舞う夕刻でしたから、もう一度表れるまでまって見るといった、心の余裕もなく、そのまま小屋に向かいました。

ところが、その後いくら山に登っても、オコジョに出会えませんでした。屋久島でそれらしきものの影が、登山道を横切りましたが、調べてみると屋久島にはオコジョはいないようなので、イタチだったようです。ネズミや小鳥の卵や昆虫、時には自分の何倍もあるノウサギを襲うこともある元気者ですが、もともと個体数が少ない上に、山小屋で使うネズミの駆除剤などの影響もあって、近年ますます数が減ってきているのです。

この夏の朝日連峰の縦走(※「美しい山」参照)で、30年ぶりに出会いました。ガスと霧雨に強風と、ちょっとうんざりするような天候の中を、以東(いとう)岳山頂にたどり着きました。予定のコースから外れるのですが、写真で見るその素晴らしい山容と山頂からの景観に心引かれる思いがして、ピストンでやって来たというのに・・・ガスの中で全く展望がありません。そんな天気ですから他の登山者もいませんが、山頂の標識をバックに写真を撮って、三角点の標識の上で一休みしていると・・・・・オコジョがでてきたのです。オッ!と思っていると、向こうもこちらを見ています。これは写真に撮っておかなくてはとカメラを出しても逃げません。パチリ。その内茂みの中に消えました。残念に思っていると、別の所からでてきて、こちらを見ています。どうも、オコジョにとっても、私のことが気になるようです。チョコチョコ、ピョンピョンと動き回っては、立ち止まってこちらを見ています。そして、また茂みの中に、そして又別の所から顔を出してくるの繰り返しです。私からの距離は1〜3mくらいの所です。脅かさないように、こちらも座り込んで、急な動きを控えていたからでしょう、文字通り至近距離で、たっぷり観察の機会を与えてくれました。

今度『はじめまして』で、「森のなかで・・・」と聞かれたら、オコジョですね。展望の無い以東岳でのワクワク感とともに、紹介してみたいと手ぐすね引いています。
(2003.11.13記)


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人と自然の出会い旅40
池にクラゲが・・・

 それは、ある小学校でのネイチャーゲームでのことでした。学年のPTC(親と教師と児童)行事ということで、福山のネイチャーゲーム仲間たちと指導に行きました。百数十人を超す「フクロウとカラス」などというすごいことをやった後、小グループに分けてそれぞれに小学校の外に広がるフィールドへ。
 私たちのグループは、近くの山のふもとへ向います。その途中、池の中を何気に見ると・・・なんだか白っぽいものが無数にただよっています・・・・ン?・・・なんだクラゲ???でも池だよ、クラゲは海でしょ。
子どもたちや保護者(当然地元)に聞いてみても、見たことが無いと言います。とにかくすごい数です、近づいて見ると、直径数cm小さいですけどやっぱりクラゲのようです。そこでの結論は、「きっと淡水性のクラゲがいるんだ」ということでした。それにしても、近くに住んでいる人も始めて見たといいます。もともといないとしたら・・・、誰が持ち込んだんだろう・・・・いや水鳥とかに付いてきたのではないかな・・・などと盛り上がりました。

 その後調べてみるとやはり淡水に生きるクラゲは存在していました。何種類かあるようですが、日本で見つかるのは「マミズクラゲ」のようです。日本で最初に見つかった淡水クラゲは、1921年(大正10年)、三重県津市井戸で見つかったイセマミズクラゲ(マミズクラゲとは別種)で、以後見つかっていません。もう一つは1974年11月、静岡県で発見され1985年にクラゲが分離し、ユメノクラゲと名づけられたもの、これも以後見つかっていないのです。
 ということで、この池のクラゲもマミズクラゲだと思われます。マミズクラゲは、中国原産で、揚子江沿岸で毎年桃の花に季節に発生することから「桃花魚」とか「桃花扇」などと呼ばれていて、1250年には文献に登場しているようです。これが、1880年ロンドンで王立植物協会植物園の大型スイレンの水槽で発見されて、「科学」界にデビューします。日本では戦後発見例が毎年のように報告されるようになります。中国からの引揚者と一緒に入ってきたのではないかと推測されています。
 ところが、発見されるクラゲは雄か雌のどちらか一方だけです。ということで、こどもができず、そのうち池から消えてしまうようです。実は、クラゲの多くはイソギンチャクのように水底に固定しているポリプと呼ばれる時代があるのですが、ポリプ時代は性が無いようですが、クラゲが分離してみると雄か雌のクラゲしかできません。通常は別のポリプから他の性のクラゲができるので相手がいることになるのですが、マミズクラゲの場合は、どの池でも片方の性しか見つからないので(中国では両方の性があることもあるようです)、そのうち消えてしまうということになります。ただ、消えたと思っていても、池底にポリプは残っているようなので、いつかまた、あの池でマミズクラゲに会えるチャンスがあると期待しています。それにしても、クラゲ好きの人でも、天然のマミズクラゲを見たこと無いという人が多いようです・・・・「見たことあるもんね」・・・ちょっと自慢。  

2004.4.6
クラゲの生態については、自然のおもしろクイズのクラゲさんの骨なし

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