参照-001
米山記念奨学基金の設立
米山記念奨学基金の目的は、日本のロータリーの創設者、米山梅吉の功績を記念し、アジア地域から優秀な学徒を日本に招致して学問、技術を研究させようとするものである。
この制度の成案が可決されたのは、1952年12月。翌年2月には募金計画が決定し、会員有志から1口1千円以上、法人からは1口1万円以上をもって、目標260万円の浄財を募ることになった。おもしろいことに寄付第1号は東京RCの例会の常連であった米国人ウィリー・ネルソン(Willey Nelson)で、募金のほうは順調に進んだが、奨学生の招致は容易ではなかった。
奨学生第1号に選ばれたのは、
タイの青年ソムチャード=ラタナチャタ(Somchard Ratanachata)君。
1954年10月に来日して、東京大学農学部で養蚕を学んだ。また、同じ東京大学で水産資源について勉強していたインドの学生イーペン(P. K. Eapen)君が、学資途絶のため帰国しようとしていることがわかったため、奨学金の支給を即決した。次いで、東京水産大学に在中のインド人学生ロイ(A. B. Loy)君についても支給を決めた。
米山奨学基金は、将来、全国的事業に発展させたいというのが当初からの理想だった。そこで他クラブへの呼びかけを始めたところ、続々と賛同を得て、1958年のロータリー米山奨学会の設立に至る。さらに1967年には(財)ロータリー米山記念奨学会となり、いまや1年間の奨学生数百名という日本ロータリーの大きな国際事業になっている。 
 
参照-002
参照-002に戻る   
第2680地区パストガバナー「田中毅PDG ロータリーの源流」
より引用
 


ロータリーの創始者
ポール P.ハリス (Paul P. Harris)
  
ポール・ハリス (略歴)

 
1868年4月19日、シカゴ市の北にあるウィスコンシン州ラシーンで、ジョージ・ハリスとコーネリアの二男として生まれる。
 3 歳の時両親が破産し、兄とともにバーモント州ウェーリングフォードに住む祖父母に養育される。
1885年バーモント大学で新入生いじめの仲間という濡れ衣で退学処分を受けるが、後日、大学は過ちを認め名誉博士  号を授与している。
1887年19歳で名門プリンストン大学に入学するが祖父の死に合い、大理石会社で1年働く。
1889年法律事務所で法律を勉強しアイオワ大学法律学部に入学、1891年23歳で法律の学位取得して卒業。その後5年 間各地で様々な  職に就き見聞を広める。
1896年、シカゴで弁護士を開業。
1905年2月23日の夜に他3名と世界最初の奉仕クラブ「ロータリー」を創始した。創始3年目にクラブ会長となる。
1910年7月2日夫人ジーン・トムソンと結婚。ハリス42歳。
1912年8月「全米ロータリークラブ連合会」を結成、初代会長となる。
1922年には「国際ロータリー」と改称。
シカゴ郊外に居を構え夫人の郷里の街の名をとりカムリー・バンクと名づけ、生涯の居とした。旅行に多くの時間を費やし、頼まれて夫人と共に世界各国を何回も回り毎年の国際大会、地域大会、地区大会などで多くの講演を行い、生涯をロータリーの発展に捧げた。「国際ロータリー」の初代会長にして、1947年78歳 で逝去したときは名誉会長であった。
シカゴ市マウント・ホープ墓地に眠る。 
 
ポール・ハリスと家族
ポール・ハリスPaul Harrisの父方の先祖はスコットランド出身であり、ハリスという名前はノルマンディ出身のヘンリーから変化したものだと言われています。イングランドではハリスンHarrison、ウエールズではハリースHarries、スコットランドではハリスHarrisが多く使われているようです。バージニア州のハリスバーグという地名はヨークシャー出身者に因んでつけられたもので、ヨークシャーはスコットランドと深い関係があります。
 
ポールの父方の祖父に当たるハワード・ハリスは、バーモント州ウォーリングフォードで農園を営んでいる資産家で、祖母のパメラは同じくウォーリングフォードの実業家ジェームス・ラスチンの娘でした。二人とも、ニューイングラントの典型的な敬虔な正教徒であり、ハワードは背が高くて恰幅のいい体格でしたが、バメラは体重89ポンドと小柄な女性でした。なお、現在は、「ポール・ハリス記念館」としてウォーリングフォード・ロータリークラブが例会場として使用している、ポールが通った「小さな赤い屋根の小学校」は、このジェームス・ラスチンが1818年に建てたものです。
 
ハワードとパメラには一男四女の子供がいましたが、一人息子のジョージがポールの父親にあたります。三人の娘は早死にしましたが末娘のパメラは、ウエスト・ラトランドの医師、ジョージ・フォックスと結婚し、後にポールは、フォックス医師の下に身を寄せて、ここから高校に通いました。多感な少年時代の一時期をここで暮らしたことから、彼の人格形成にフォックス医師の影響を大きく受けたものと思われます。ポールが少年時代によく泳ぎに行ったフォックス池は、ジョージの弟ウイリアム・フォックスの持ち物でした。
 
ポールの母方の先祖はアイルランドからマサチューセッツに渡ってきた移民で、元来オブライエンという名前でしたが後にブライアンと改名します。ポールの母方の曽祖父はニューヨーク州西部開拓者の草分け的存在であるリューベン・ブライアンであり、その子供が祖父ヘンリー・ブライアンです。
 
ヘンリーはシカゴで弁護士を開業していましたが、ゴールド・ラッシュに人生を賭けて、49人の仲間を引き連れて、カリフオルニアへ金鉱探しにでかけ、全財産をそれに投入しましたが、それに失敗して、ラシーンに戻りました。ラシーンは当時急速に発展した町であり、ヘンリー・ブライアンはかつてシカゴで弁護士をしていたという経歴をかわれて2代目の市長に就任しましたが、金銭的にはかなり苦しかった模様です。
 
ポールの両親や祖父母に関する記録は、ポール自身の自伝に拠るところが多く、その中では父方の祖父ハワードと祖母パメラの事だけしか触れていませんので、母方の祖父ヘンリー・ブライアンの影響については、あまり知られていないようですが、ポールは、性格的にはヘンリーにそっくりであることから、後にシカゴで弁護士を開業したのも、サンフランシスコに二番目のロータリークラブを拡大したのも、この祖父ヘンリーがシカゴの弁護士であり、かつサンフランシスコで受けた大きな打撃に対する報復であると、うがった見方をする向きもあります。
 
このヘンリー・ブライアンの8番目の娘、コーネリアがポールの母親です。父方の祖父ハワード・ハリスは、息子のジョージと嫁のコーネリアのために、ラシーンにドラッグ・ストアーと一戸建ての居宅を買い与えていますし、コーネリアの実家にもかなりの金銭的援助をしています。
 
ポールはジョージとコーネリアの第二子として、ラシーン市5番街316番地の家で生まれましたが、この家は1956年にホテル建設のためにとり壊されました。現在はこの場所にはラシーン銀行が建っています。ジョージはあまりにも豊かな才能を持っていたため、売れもせぬ小説を書き続けたり、発明にうつつを抜かす生活を続けたため、健全にドラッグ・ストアーを経営することができませんでした。コーネリアも金銭感覚にうとく、その日の糧に困っても、メイドを雇うのが当然だと考える性格でした。そしてピンチが訪れるたびにハワードに助けを求めるという日常生活を繰り返していましたが、ついにそういった生活にも限界がきて、一家離散という破局を迎えることになりました。
 
1871年7月、5歳の兄セシルと3歳のポールは、父ジョージと共に、ミルウォーキーに向かい、そこから汽船と汽車を乗り継いで、バーモント州ウォーリングフォードに向かい、祖父ハワードに預けられることになります。コーネリアは、持ち前の自尊心の高さから、舅の世話になることを拒否して、生まれたばかりの妹、ニーナ・メイと共にラシーンに留まって、ピアノを教えて生活の足しにする道を選びます。
 
ポールとセシルが何年間このウォーリングフォードで生活したのかは判りませんが、父親がやっと定職に就くことができたので、ニューヨーク州東部のケンブリッジで、再び家族が一緒に暮らすようになりますが、ふたたびポールはウォーリングフォードに戻されることになります。しばらく経ってから、再度、ハワードがジョージにドラッグストアーと家を買い与えたことから、家族一緒に、バーモント州西部のフェアヘイブンで暮らすことになりますが、2-3年後には元の木阿弥となり、ジョージは発明に熱中して一家離散が繰り返されました。
 
これを最後に、ポールは三度、祖父ハワードに引き取られて、それ以降、両親や兄弟と一緒に暮らしたという記録はありません。或る晴れた日に、美しく着飾った母と妹がウォーリングフォードを訪れて、ポールにすずらんの花束を贈ったと言うのが、母親に関する唯一の思い出であり、それ以降は両親に関して全く触れていませんし、事実、その後は両親との接触は全く無かった模様です。
 
ポールがアイオア州立大学に入学する前、デモインのシェルドン大理石商会で外交員として働いた際、一緒に働くように誘ったのは兄のセシルでしたし、ロータリーが創立された後は、国際ロータリーの事務局の職員を務めましたが、若くしてこの世を去りました。ポールが両親と別れた後、フェアヘイブンで3人の弟が生まれていますが、一番上の弟は夭折し、二番目の弟は米西戦争でフィリピンで戦死しました。
 
一番下の弟レジナルドは数奇な人生を歩みます。国際ライオンズの文献によれば、1905年2月23日、ロータリーの最初の会合が開かれた際、その場所にレジナルドが同席しており、ロータリー最初の会合は4人ではなく5人であったと記載されています。その後レジナルドはララミー・ロータリークラブの副会長を経て、国際ロータリーの事務局に務めますが、1930年に国際ライオンズに移り、組織に壊滅的打撃を与えます。
 
ポールが逝去する5日前、1947年1月22日付の、ポールがレジナルドに出した手紙が残っていますが、その宛先は、国際ライオンズ事務局気付けとなっています。

ポールは生涯に亘って両親からの愛情に恵まれなかったばかりか、祖父母も両親に代わってポールに愛情を注ぐには、余りにも年を取り過ぎていました。ポールが3歳で預けられた時、祖父ハワードは既に72歳という高齢だったのです。その結果かどうかはわかりませんが、自分の意に副わないという理由で、敢えてポールを遺産相続人から外すという措置を講じたため、折角通っていたプリンストン大学を途中で断念せざるを得ませんでした。その一方で、自分を見捨てた父親や末娘には遺産を残すという不公平さに対して抗議をする意味からか、祖母パメラの葬儀の際にもウォーリングフォードには足を向けませんでした。ポールはスコットランド、エジンバラ出身のジェーンと結婚しますが、子宝に恵まれませんでした。
二人の仲がどうであったかは知る由もありませんが、ポールに対する弔辞の中でジーンが述べた「知っているようで、知らない人」という冷ややかな言葉や、ジーンがポールと一緒に葬られることを嫌って、4000マイルも離れたエジンバラに別の墓所を作ったことからも、仲睦ましい家庭生活を送ったとは思われず、生涯を通じて家族の愛に恵まれた生活を送ることが適わなかったことだけは確かなようです。

 

参照-003
ロータリーの始まり

翻訳:東昭二RJW翻訳委員  監修:RJW委員会  より引用

今日、ロータリーは奉仕と国際親善への献身的な活動により世界中によく知られています。しかし、1905年にポール P ハリスがロータリーを創設した時には、奉仕により、世の中を変えて行くことは殆ど考えていませんでした。ハリスは米国、イリノイ州、シカゴの弁護士でしたが、生まれはバーモント州の田舎村でした。彼が心の中で描いていたのは新しい形の専門職業人のクラブであり、そこで彼が幼年時代に体験したような仲間意識と友情の火を灯すことでした。
 
1905年2 月23日、ハリスは、石炭商のシルベスター シール、洋服屋のハイラム ショーレイ、鉱山技師のグースタブス ローアなど三人の友人を招いて、シカゴのダウンタウンのユニティ ビル711号室にあったローアの事務所に集まりました。ハリスは、事業の指導者が定期的に会合して仲間同士の親睦を楽しみ、実業家、専門職業人の知り合いの輪を広げようと提案して皆がそれについて話し合いました。クラブは毎週会合すること;会員は夫々の業界や専門職種から代表の一名に制限することなどを話しました。その晩はロータリーという言葉は使われませんでしたが、その集まりは一般的に最初のロータリークラブの例会として見なされるようになりました。
 
会合を重ねるにつれて、会場は会員の仕事場の持ち回りになり始めました。そこからロータリーという名前がつきました。印刷屋のハリー・ルグルスが五人目の会員として参加した後で、このグループは正式にシカゴ ロータリークラブとして結成されました。
 
クラブの最初の徽章だった馬車の車輪の図案から現在ロータリアンが世界中で使用しているお馴染みの歯車の徽章が生まれました。1905年末のクラブ名簿では会員数30名、シールが会長、ルグルスが会計でした。ポール・ハリスは新しいクラブの役職を辞退しましたが、二年後に会長に就任しました。 会員数の増加につれて事務所での集会が難しくなったので、例会場を現在多くのクラブが例会を開いているようにホテルとかレストラントに移しました。
 
これらの初期のロータリーアンは仲間同士の親睦とお互いの自己満足だけでは多忙な専門職業人たちを毎週クラブ例会に惹き付けるには十分でないことに気が付きました。不幸な人達の生活の改善のために手を差し伸べることがより重要な動機つけになりました。ロータリーの奉仕活動は、1907年にシカゴRCが市内で最初の公衆便所を建設した時に始まりました。クラブのこの初めてのプロジェクトによりロータリーは世界で最初の奉仕団体としてのクラブになりました。ロータリーの人気は全米に広がり始めました。
  
二番目のRCは1908年にカリフォルニア州サンフランシスコに、三番目のクラブはカリフォルニアのオークランドに誕生しました。それからワシントン州シアトル、カリフォルニア州ロスアンジェルス、ニューヨーク州ニューヨークに続いて結成されました。ロータリークラブ全米協会が1910年第一回大会を開催した時に、ハリスは会長に選出されました。その翌年の大会で“無私の奉仕”と“最もよく奉仕する者、最も多く報いられる”の言葉が語られ、 ロータリーの標語になりました。“無私の奉仕”は後に“超我の奉仕”となり、ロータリーの第一標語に採択されました。

 
参照-004
日本ロータリー史

第2680地区パストガバナー「田中毅PDG作 日本ロータリー史」 より引用

米山梅吉にロータリーの存在を伝えたのは、三井物産の現地法人Southern Products 社の支配人として、既にダラス・クラブの会員であった福島喜三次(きそじ)です。福島は1915年にダラス・クラブのアディショナル正会員となった最初の日本人ロータリアンであり、福島の帰国後に、「島」某が彼に代わって入会したという記録が残っています。なお、RIに現存する記録には、彼より古い日本人ロータリアンの名前は見当たりません。1917年10月に目賀田種太郎男爵を団長とする政府派遣財政経済委員の一員として渡米した米山梅吉(三井銀行役員)が、1918年の正月をダラスの福島宅で過ごし、 「メキシコの 境まで咲く 枯野花」「テキサスの野の東や 初日の出」他一句を詠んでいます。更に福島のゲストとして、ダラス・クラブの例会に出席したことから、米山にはロータリーに対する充分な予備知識がついていたと思われます。
 
1920年 1月に帰国した福島は、アルバート・アダムスAlbert Adams 国際ロータリークラブ連合会会長から、年度内に日本にロータリークラブを設立することを条件に、特別代表の任命を受け、米山梅吉と共に奔走しますが、年度末までに、創立に必要なチャーター・メンバーの数を集めることができず、期限切れとなってしまいました。エスタス・スネデコルEstes Snedecor 連合会新会長は、直ちにパシフィク郵船横浜支店長ジョンストンW.L.Johnston を共同代表に任命して拡大の協力を命じました。1920年9月1日に設立準備会が開かれ、同年10月20日、チャーターメンバー25名が集まって、銀行クラブで創立総会が開催され、東京クラブが誕生しました。
 
なお、RIから正式に認証されたのは 1921年4月1日になってからです。初代会長には米山梅吉、幹事には福島喜三次、伊東米次郎、樺山愛輔、小野英次朗が就任しましたが、福島は僅か二回例会に出席しただけで、1921年 3月に大阪へ転勤になり、大阪クラブの設立に関与した後、上海クラブ会員を経て、1932年10月、日本最初のパスト・サービス会員として東京クラブに再入会しています。福島が最初の日本人ロータリアンとして米山梅吉にロータリーの存在を伝え、東京、大阪クラブの設立に大きく係わったことから、日本のロータリーの創始者は米山か福島かという問いを投げかける人もいますが、ロータリーの思想をより深く理解し、実践し、日本のロータリー運動を実質的に指導した米山梅吉を、創始者とすることは極めて妥当な評価と言えましょう。
 
創立当初の東京クラブの特徴は、会員名簿からも判るように会員のほとんどが財界の大御所で占められていたことです。エリート中のエリートから選び抜かれた大企業の社長や重役といった顔ぶれが並び、弁護士、医師等の自由業の会員は見当たりません。この最初の人選が前例となって、日本の戦前のロータリーは功成り名を遂げた財界人が入るクラブという錯覚を生みだし、更に社会的地位とロータリアンの質とを混同する過ちを冒すことになります。
 
会員が財界人であるがゆえ、金銭を介する[物質的相互扶助]の必要もなく、米山梅吉の方針によってロータリーの奉仕哲学の探究に真摯な態度で取り組み、個人奉仕の原則もよく理解されていた反面、クラブ組織としての管理運営はあまり省みられませんでした。当初は例会も月一回であり、かつ、たびたび流会し、出席率も悪く、また規約に対する関心も薄かったと言われています。
 
1923年 9月 1日、関東大震災に対するRIと全世界のロータリアンの友情と援助が、東京クラブのロータリアンに大きな影響を及ぼします。震災直後の9月 4日にはRI会長ガイ・ガンディカーからの励ましの電報が、更に、その翌日には、RIから25,000$を、震災復興資金として贈る旨の通知が届きました。この義捐金は、国際理解と親善のための基金として貯めていたアーチクランフ基金(現在のロータリー財団基金の前身)を取り崩したものという説と、RIの災害基金から支出したいう説がありますが、何れが正しいかは不詳です。
  
これが呼び水となって、世界各国の 503クラブからの分を含めて、合計89,800$の義捐金が寄せられました。東京クラブはこの義捐金で、東京と横浜の小学校 188校への備品寄贈、東京孤児院の新築、殉職警察官遺族の援助、木下正中会員の産科病院再建事業を行いました。東京孤児院は翌年完成し「ロータリーの家」と呼ばれていましたが、第二次世界大戦で焼失して現在は残っていません。東京クラブは、このロータリーの友情を契機にして、今までの月一回の例会を毎週開催するよう改めたと言われています。
 
福島喜三次の大阪転勤を機会に、関西財界人の間にロータリーに対する関心が高まり、英米訪問実業団の一員として渡米した星野行則がシカゴへ赴き、直接、RI事務総長チェスレー・ペリーと会談して、大阪クラブ設立の意向を伝えました。日本におけるロータリーの拡大に積極的だったチェスレーは、拡大に関する直接の指導を与えると共に、星野に大阪クラブ設立に関する全権を委嘱しました。帰国した星野は、福島と協力して拡大の作業を進め、1922年11月17日、大阪クラブが設立されます。初代会長は星野行則、副会長村田省蔵、幹事は福島でその任にあたりました。
 
この年が、国際ロータリークラブ連合会が国際ロータリーに改組され、これに伴って定款・細則の抜本的改正が行われた年であったことに加えて、チェスレー・ペリーの強い影響を受けて設立された大阪クラブは、当初から管理運営面の充実を図り、出席規定の遵守、例会の時間励行、クラブ歌の制定、親睦会、定款翻訳などが積極的に実行されました。もっとも、1922年 6月以降に設立されたクラブは、RIによって定められた標準クラブ定款を採用し、それに従うことが義務づけられましたから、これを以て大阪クラブの特徴とは言いきれないかも知れません。
 
その後、大阪クラブをスポンサーとして神戸クラブが、東京クラブをスポンサーとして名古屋クラブが創立され、更に、京都、横浜と順次クラブが増えていきました。当初は、RIによる直轄クラブとして地区設定はされませんでしたが、1928年朝鮮、満州を合わせて第70地区として、RIより正式承認を受けることになります。正式認定とはいうものの、当時 7クラブしかなかった地域を地区として承認することにはかなりの無理があり、日本の強引な提案にアジア各地のクラブからの反発もあり、RIがしぶしぶ了解したというのが真相のようです。

 

 
日本人ロータリアン第1号      福島喜三次 (きそじ) 
奉仕の理想探求語録


第14号 長崎東ロータリークラブ 雑誌委員会  から引用

 
日本初のロータリークラブは1920年(大正9年)10月20日に、当時三井銀行の重役であった米山梅吉翁が東京に創立したことはロータリアンならどなたもご承知のことでしょう。
しかし、そこにはあまり知られていない蔭の功労者がいたことを忘れてはなりません。その人の名は福島喜三次翁です。彼は1881年(明治14)、佐賀県有田市に、父方は代々紺屋(染め物屋)、母方は酒造業の子供として生まれました。
 
のちに東京商科大学となる東京高等商業学校を首席で卒業し、1904年、三井物産に入社、ニューヨーク支店勤務を経て、12年、ダラスで三井物産の子会社を設立、綿花を大々的に商うことになる。そして1915年にダラスロータリークラブのメンバーになりました。ですから、福島喜三次こそ日本人ロータリアンの第一号といえます。
やがて米山梅吉が経済使節団を率いて訪米し、その際福島家に宿泊、喜三次の紹介でダラスロータリークラブを訪問しました。「テキサスの野にひんがしの初日の出」はその折り梅吉が詠んだ句です。
  
さて、喜三次は東京への異動に伴い帰国することになりますが、その際にRIから、日本にロータリーを創設して欲しいとの要請があり、米山梅吉を会長に、日本で初めてのクラブ創設に尽力したのです。翌1921年(大正10年)4月1日、世界で855番目のクラブとしてRI加盟が承認されました。喜三次は幹事として会長を補佐しました。それから1922年(大正11年)11月17日に大阪クラブが創設され、ここでも幹事として裏方に徹しました。
  
喜三次が大阪在住中の23年9月に関東大震災が起こり、彼はいち早く救援物資を東京へ送りました。RIや世界の500余のクラブからも続々と援助が届きました。救援物資とともにこうした支援は復興へ大変役立ち、全国民から感謝されました。このことが、ロータリークラブが全国的に相次いで生まれる契機ともなりました。
 
1928年(昭和3年)日本が第70地区として設定され、初代ガバナーに米山梅吉が就任、現在では北は北海道から南は沖縄まで、津々浦々にロータリーが展開されていることはご存じの通りです。米山梅吉とともに福島喜三次の名もロータリアンの記憶に是非とどめていただきたいと思います。

「福島喜三次−日本人初のロータリアン(1) 

紋別港RC 平野克昌会員  より引用

 
福島喜三次には、ロータリアンとして、三つの保持記録がある。
その一は、日本人としてはじめてロータリークラブの会員になったこと、その二は、東京RCの初代幹事になったこと、その三は、大阪RCのこれも初代幹事になったこと、更に付け加えるならば日本のRCにおける、初のパスト・サービス会員になったことであろう。
 
福島喜三次、名は「キサジ」と読み明治14年(1881年)10月10日佐賀県有田町(現在の本町)に生れた。生家は代々紺屋を業としており、父の喜平は学問や詩文また画にも通じ、正司孝祺の薫陶を受けたと言われている。その父は喜三次が二才の時他界するが、その後の母タツによる訓育は、父の師孝祺の教訓を受け継ぎ、喜三次の生涯に影響を与えたと、福島の生地有田RC発行の「ロータリアン福島喜三次傅(日本ロータリーの曙)」(以下「福島伝」という)は述べている。
 
正司孝祺(字は子寿、通称庄治、号碩渓、南鴉)(1793年−1857年)は、江戸時代後期の経世家で、肥前有田に代々商業を営む有富な家の長子に生れ、学問を好むとともに、商才にも能力を発揮し、巨富を積むまでになった。文政11年(1828年)、有田に大火があり、町が壊滅した時、全財産を投げ出し復興に尽したという経歴の持ち主でもある。その影響か、少年喜三次には子供達を集め、野山に行っては火事を想定して消火訓練の遊びに興じていたとの古老の話もあるという。
明治維新後、近代経済思想が移入される以前の、江戸時代後期における経済思想の一つとしての正司孝祺の経済観は、だいたい次の様なものであった。彼は、商人の自由な経済活動は、国の富に直接結びつくとの見解をとる一方、貨幣経済の進展は、士農階級の財政窮乏を招き、これらの階級も商業行為即ち、藩営事業、藩営専売を営まざるを得なくなるが、これらの行為は商人の職を奪い、藩が利益を占有する、悪政であり、また藩礼の発行、人別銭なども民の富を涸らすものと主張し、貧窮防止の最上策は為政者の倹約であるとの立場をとった。
 
「福島喜三次−日本人初のロータリアン」(2)  

紋別港RC 平野克昌会員  より引用

 
この時代の経済論は、多少の差はあれ、士農工商という身分社会を根底とした四民分業論であり、人間はその経済的欲望を充足させることより、自然界の法則や人間倫理の遵守こそが人間社会の幸福のため重要であるとの考えが主流であったと思う。
「経済は生きものである」現代からみれば、この時代の経済論は、科学的根拠に乏しく、今日顧みられることは皆無といってよい。しかし、その「生きた経済」に「生きた人間」が振り廻されている現代、現代の経済論が真に人間社会を幸福にする論理を展開しているのであろうか。土屋大夢は「ロータリアン以前のロータリアン」として二宮尊徳の報徳教に、ロータリーの奉仕哲学の原型があると説いた。アーサー・フレデリック・シェルドンは、西洋哲学の限界性を識り、自他峻別論理を排し関係論の立場から奉仕哲学は宇宙・社会・個人間の因果関係に及ぶという東洋的思弁の世界を展開した。

ロータリー運動の理念、特に職業感の根本にこのシェルドンの奉仕哲学が厳然と存在することを識るとき、江戸時代の、今は陳腐と思われている経世家達の思想を顧み、その心を識ることも、決して無益ではあるまいと筆者は考える。
学業において優秀であった喜三次は、小学校を卒え、長崎商業学校そして東京高商(一ツ橋大学)へと進み、明治37年卒業にともない、三井物産へ入社する。
 
福島のロータリー・レコードの第一、「日本人としてはじめてのロータリークラブの会員」は明治38年三井物産ニューヨーク支店勤務となりオクラホマ、ヒューストンを経て、明治45年ダラス出張所長に就任したことが契機となる。当時のダラスは、米国南部テキサス州の綿花の大集散地であり、三井物産は現地法人(「サウザンプロダクツ」社後に「サウザンコットン」社「福島伝」による)を設立し福島はその支配人も兼務していた。日本ロータリー五十年史によると、この会社とダラスRCとの関係は、福島の部下ドイツ人ウィリアムスが福島の前に会員であり、そのウィリアムスが、1914年(大正3年)第一次世界大戦のため、ドイツへ帰国したのをうけ、福島が入会したとある。その辺の事情を、福島の妻朝子は昭和38年11月号「ロータリーの友」の対談(以下「友」という)で次の様に語っている。「ダラスには8年近くおりましたから、大正4〜5年の頃だったと思います。ただ一人の日本人としてメンバーになりました。」
福島のダラスRC入会の正確な年月が何時であったか、またその職業分類は何であったか、興味深いところであるが、この妻朝子の証言では明確でない。そこで、「福島伝」には次の記述がある。


   
福島喜三次−日本人初のロータリアン」(3)          

紋別港RC 平野克昌会員  より引用 

 
有田RCの会員が、渡米の際ダラスを訪れ調べた結果「現在、ダラスにはロータリークラブは沢山あって、其の当時の即ち一番古いクラブがダラスダウンタウンロータリークラブである事が判り、そこで色々調べて貰ったが、仝クラブは随分前に火災に遭い、福島さんが居られた頃の記録は全部焼失して居て調べ様がないとの事で失望して帰った。」そこで今度は、当時の第二七四地区ガバナーを通じて、RI本部に調査を依頼したが、「RI本部にも其の当時の古い会員名簿は無いらしく、結局ダラスのクラブへ照会されたが、矢張り1912年〜1920年の間の記録がないため、不明との回答があった。
 
 更に、福島がダラスRCの会員であった当時、同じ会員であったMr.Howard Payneという人が存命であることを知り、人を介してPayne氏に当時のことを質問したところ「ミスター福島はサウザンコットン社のマネージャーであった事、1915年頃(やっぱりアバウトと書いてある。)ダラスロータリーの会員であった事、1920年(大正9年)初め日本へ奥さんと一緒に帰られた事、そうして島という人が福島さんの後任として来られ、此人もやはりダラスのロータリアンとなられた事」という回答を得た。
 
 この福島の事例のように、初期ロータリーの歴史には不明なことが多い。本来、社交クラブとして誕生したロータリー運動において正確な記録を後世に残すといった意図がなかったのは、蓋し当然と言える。この「福島伝」を読んで筆者が疑問を感じたのは「ダラスダウンタウンロータリークラブ」の件である。
 
 現在、ダラスにはDallasの名を冠していない9クラブも含め13のRCがあるようだが、Dallas,RC TXの1912年創立を除いては、いずれも第二次世界大戦後に創立されたクラブであって、福島が会員であったのは、ダラスの所謂、本家クラブであるダラスロータリークラブに他ならない。また、Payne氏が語った「福島さんの後任の島さんがダラスクラブの会員になった」という「島」さんは、どんな人であったのであろうか、三井物産に記録がないものか「島」さんは当時のダラスRCについて何か記録を残さなかったか興味深いところでもある。
  
いずれにしても、福島喜三次が1915〜16年(大正4〜5年)に、ダラスRCで日本人としてはじめてロータリークラブの会員になったことは間違いない。
 

 

 

“米山梅吉と福島喜三次” 

伊丹ロータリークラブ  ロータリー情報委員会  深川純一会員より引用

   
東京ロータリークラブは、現象的には米山梅吉、William L. Johnstonそして福島喜三次 の三人で創立されたものであること、しかし、歴史の実体面から見る限り、米山梅吉一人を日本ロータリーの始祖、東京クラブの創立者であると考えるべきであると申しました。米山さんは、ロータリーに対する貢献以外に奉仕の実践についても、自己犠牲の奉仕の世界に生きた人であり、湯水の如く入ってくる収入を全て世のため人のために使ってしまったのであります。日本のロータリーの歴史上、過去、現在、未来を見て、これくらいロータリーのために貢献したロータリアンは、今後おそらく現れることはないだろうと思われるのであります。
では、William L. Johnstonは、その後どうしたのかと言いますと、彼は外国人でありますから、東京クラブには入会せずにアメリカへ帰りましたが、東京クラブは、その後、彼を終生名誉会員としてその徳を称えているのであります。
 
次に、福島喜三次さんは、その後どうなったのかと言いますと、
東京クラブは、彼には非常に冷たかったのであります。その原因はむしろ福島さんの方にありました。福島さんは昭和11年に上海支店長から東京へ戻り、東京クラブにパストサービスメンバーとして入会しましたが、福島さんは、その頃から国粋主義者になり、軍国主義的に思想が変わり、ロータリー運動に対して否定的になったのであります。
  
当時、ロータリーが軍閥から弾圧されている最中にあって、福島さんは、『ロータリー運動のような全世界を友愛の心で結ぶなどということは甘い考えである。ロータリーなど無くてもよい。ただ、自分は、過去の因縁があってロータリーと縁が切れないだけである。日本は神の国だから戦争には必ず勝つ』と信じて疑わなかったのであります。これに反して米山さんは、国際主義的でありロータリー運動を守ろうとしましたが、福島さんは国粋主義的でありロータリーを否定したのであります。この様に両者はロータリー運動に対する功徳の量が圧倒的に違うのであります。
 
このことを東京のロータリアンは知っていたが故に、有田クラブが作った福島奨学基金と米山記念奨学会との合流を頑としてはね付けたのであります。したがって、米山梅吉と福島喜三次の二人を同時に日本ロータリーの始祖と考えることは、歴史の実体面から見て正当化されないのであります。

 

 
<東京ロータリークラブ・創立会員> 
深井 英五  日本銀行 理事 銀行
藤野 正年    日本製麻 重役 製麻
福島喜三次    三井物産 副支配人 羊毛輸入
藤田  譲     明治生命 重役 生命保険
藤原 俊雄    内外興業 重役 自動車販売
堀越善重郎    内外商会 会主 生糸輸出 
星   一  内外製薬 社長 製薬
井上敬次郎    東京市電気局 局長 電車
磯村豊太郎    北海道炭鉱   重役     石炭
伊東米治郎    日本郵船    副社長     航海
岩井重太郎    日興證券 社長 信託
樺山 愛輔    日本製鋼    社長     製鋼 
梶原 仲吉    正金銀行   副頭取    為替
岸 敬次郎    芝浦製作    重役     電器製作 
北島  亘     北島商会    会主     株式仲買
倉地 誠夫    三越       重役     百貨店
牧田  環     三井鉱山    重役     鉱山
長野宇平治    建築技師   建築設計
小野英次郎    興業銀行    前総裁    産業銀行
佐野 善作    商科大学    学長     教育
 
 


There is, fortunately, no copyright on the spirit of Rotary      (Paul Percy Harris )
   
※ロータリー精神には版権という概念は存在しない            ポール・ハリス