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ロータリーの創始者
ポール P.ハリス (Paul P. Harris)
ポール・ハリス (略歴)
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1868年4月19日、シカゴ市の北にあるウィスコンシン州ラシーンで、ジョージ・ハリスとコーネリアの二男として生まれる。
3 歳の時両親が破産し、兄とともにバーモント州ウェーリングフォードに住む祖父母に養育される。
1885年バーモント大学で新入生いじめの仲間という濡れ衣で退学処分を受けるが、後日、大学は過ちを認め名誉博士
号を授与している。
1887年19歳で名門プリンストン大学に入学するが祖父の死に合い、大理石会社で1年働く。
1889年法律事務所で法律を勉強しアイオワ大学法律学部に入学、1891年23歳で法律の学位取得して卒業。その後5年
間各地で様々な 職に就き見聞を広める。
1896年、シカゴで弁護士を開業。
1905年2月23日の夜に他3名と世界最初の奉仕クラブ「ロータリー」を創始した。創始3年目にクラブ会長となる。
1910年7月2日夫人ジーン・トムソンと結婚。ハリス42歳。
1912年8月「全米ロータリークラブ連合会」を結成、初代会長となる。
1922年には「国際ロータリー」と改称。
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シカゴ郊外に居を構え夫人の郷里の街の名をとりカムリー・バンクと名づけ、生涯の居とした。旅行に多くの時間を費やし、頼まれて夫人と共に世界各国を何回も回り毎年の国際大会、地域大会、地区大会などで多くの講演を行い、生涯をロータリーの発展に捧げた。「国際ロータリー」の初代会長にして、1947年78歳
で逝去したときは名誉会長であった。
シカゴ市マウント・ホープ墓地に眠る。
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ポール・ハリスと家族 |
ポール・ハリスPaul Harrisの父方の先祖はスコットランド出身であり、ハリスという名前はノルマンディ出身のヘンリーから変化したものだと言われています。イングランドではハリスンHarrison、ウエールズではハリースHarries、スコットランドではハリスHarrisが多く使われているようです。バージニア州のハリスバーグという地名はヨークシャー出身者に因んでつけられたもので、ヨークシャーはスコットランドと深い関係があります。
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ポールの父方の祖父に当たるハワード・ハリスは、バーモント州ウォーリングフォードで農園を営んでいる資産家で、祖母のパメラは同じくウォーリングフォードの実業家ジェームス・ラスチンの娘でした。二人とも、ニューイングラントの典型的な敬虔な正教徒であり、ハワードは背が高くて恰幅のいい体格でしたが、バメラは体重89ポンドと小柄な女性でした。なお、現在は、「ポール・ハリス記念館」としてウォーリングフォード・ロータリークラブが例会場として使用している、ポールが通った「小さな赤い屋根の小学校」は、このジェームス・ラスチンが1818年に建てたものです。
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ハワードとパメラには一男四女の子供がいましたが、一人息子のジョージがポールの父親にあたります。三人の娘は早死にしましたが末娘のパメラは、ウエスト・ラトランドの医師、ジョージ・フォックスと結婚し、後にポールは、フォックス医師の下に身を寄せて、ここから高校に通いました。多感な少年時代の一時期をここで暮らしたことから、彼の人格形成にフォックス医師の影響を大きく受けたものと思われます。ポールが少年時代によく泳ぎに行ったフォックス池は、ジョージの弟ウイリアム・フォックスの持ち物でした。
ポールの母方の先祖はアイルランドからマサチューセッツに渡ってきた移民で、元来オブライエンという名前でしたが後にブライアンと改名します。ポールの母方の曽祖父はニューヨーク州西部開拓者の草分け的存在であるリューベン・ブライアンであり、その子供が祖父ヘンリー・ブライアンです。
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ヘンリーはシカゴで弁護士を開業していましたが、ゴールド・ラッシュに人生を賭けて、49人の仲間を引き連れて、カリフオルニアへ金鉱探しにでかけ、全財産をそれに投入しましたが、それに失敗して、ラシーンに戻りました。ラシーンは当時急速に発展した町であり、ヘンリー・ブライアンはかつてシカゴで弁護士をしていたという経歴をかわれて2代目の市長に就任しましたが、金銭的にはかなり苦しかった模様です。
ポールの両親や祖父母に関する記録は、ポール自身の自伝に拠るところが多く、その中では父方の祖父ハワードと祖母パメラの事だけしか触れていませんので、母方の祖父ヘンリー・ブライアンの影響については、あまり知られていないようですが、ポールは、性格的にはヘンリーにそっくりであることから、後にシカゴで弁護士を開業したのも、サンフランシスコに二番目のロータリークラブを拡大したのも、この祖父ヘンリーがシカゴの弁護士であり、かつサンフランシスコで受けた大きな打撃に対する報復であると、うがった見方をする向きもあります。
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このヘンリー・ブライアンの8番目の娘、コーネリアがポールの母親です。父方の祖父ハワード・ハリスは、息子のジョージと嫁のコーネリアのために、ラシーンにドラッグ・ストアーと一戸建ての居宅を買い与えていますし、コーネリアの実家にもかなりの金銭的援助をしています。
ポールはジョージとコーネリアの第二子として、ラシーン市5番街316番地の家で生まれましたが、この家は1956年にホテル建設のためにとり壊されました。現在はこの場所にはラシーン銀行が建っています。ジョージはあまりにも豊かな才能を持っていたため、売れもせぬ小説を書き続けたり、発明にうつつを抜かす生活を続けたため、健全にドラッグ・ストアーを経営することができませんでした。コーネリアも金銭感覚にうとく、その日の糧に困っても、メイドを雇うのが当然だと考える性格でした。そしてピンチが訪れるたびにハワードに助けを求めるという日常生活を繰り返していましたが、ついにそういった生活にも限界がきて、一家離散という破局を迎えることになりました。
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1871年7月、5歳の兄セシルと3歳のポールは、父ジョージと共に、ミルウォーキーに向かい、そこから汽船と汽車を乗り継いで、バーモント州ウォーリングフォードに向かい、祖父ハワードに預けられることになります。コーネリアは、持ち前の自尊心の高さから、舅の世話になることを拒否して、生まれたばかりの妹、ニーナ・メイと共にラシーンに留まって、ピアノを教えて生活の足しにする道を選びます。
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ポールとセシルが何年間このウォーリングフォードで生活したのかは判りませんが、父親がやっと定職に就くことができたので、ニューヨーク州東部のケンブリッジで、再び家族が一緒に暮らすようになりますが、ふたたびポールはウォーリングフォードに戻されることになります。しばらく経ってから、再度、ハワードがジョージにドラッグストアーと家を買い与えたことから、家族一緒に、バーモント州西部のフェアヘイブンで暮らすことになりますが、2-3年後には元の木阿弥となり、ジョージは発明に熱中して一家離散が繰り返されました。
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これを最後に、ポールは三度、祖父ハワードに引き取られて、それ以降、両親や兄弟と一緒に暮らしたという記録はありません。或る晴れた日に、美しく着飾った母と妹がウォーリングフォードを訪れて、ポールにすずらんの花束を贈ったと言うのが、母親に関する唯一の思い出であり、それ以降は両親に関して全く触れていませんし、事実、その後は両親との接触は全く無かった模様です。
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ポールがアイオア州立大学に入学する前、デモインのシェルドン大理石商会で外交員として働いた際、一緒に働くように誘ったのは兄のセシルでしたし、ロータリーが創立された後は、国際ロータリーの事務局の職員を務めましたが、若くしてこの世を去りました。ポールが両親と別れた後、フェアヘイブンで3人の弟が生まれていますが、一番上の弟は夭折し、二番目の弟は米西戦争でフィリピンで戦死しました。
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一番下の弟レジナルドは数奇な人生を歩みます。国際ライオンズの文献によれば、1905年2月23日、ロータリーの最初の会合が開かれた際、その場所にレジナルドが同席しており、ロータリー最初の会合は4人ではなく5人であったと記載されています。その後レジナルドはララミー・ロータリークラブの副会長を経て、国際ロータリーの事務局に務めますが、1930年に国際ライオンズに移り、組織に壊滅的打撃を与えます。
ポールが逝去する5日前、1947年1月22日付の、ポールがレジナルドに出した手紙が残っていますが、その宛先は、国際ライオンズ事務局気付けとなっています。
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ポールは生涯に亘って両親からの愛情に恵まれなかったばかりか、祖父母も両親に代わってポールに愛情を注ぐには、余りにも年を取り過ぎていました。ポールが3歳で預けられた時、祖父ハワードは既に72歳という高齢だったのです。その結果かどうかはわかりませんが、自分の意に副わないという理由で、敢えてポールを遺産相続人から外すという措置を講じたため、折角通っていたプリンストン大学を途中で断念せざるを得ませんでした。その一方で、自分を見捨てた父親や末娘には遺産を残すという不公平さに対して抗議をする意味からか、祖母パメラの葬儀の際にもウォーリングフォードには足を向けませんでした。ポールはスコットランド、エジンバラ出身のジェーンと結婚しますが、子宝に恵まれませんでした。
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二人の仲がどうであったかは知る由もありませんが、ポールに対する弔辞の中でジーンが述べた「知っているようで、知らない人」という冷ややかな言葉や、ジーンがポールと一緒に葬られることを嫌って、4000マイルも離れたエジンバラに別の墓所を作ったことからも、仲睦ましい家庭生活を送ったとは思われず、生涯を通じて家族の愛に恵まれた生活を送ることが適わなかったことだけは確かなようです。
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| 参照-003 |
ロータリーの始まり |
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翻訳:東昭二RJW翻訳委員
監修:RJW委員会 より引用 |
今日、ロータリーは奉仕と国際親善への献身的な活動により世界中によく知られています。しかし、1905年にポール P ハリスがロータリーを創設した時には、奉仕により、世の中を変えて行くことは殆ど考えていませんでした。ハリスは米国、イリノイ州、シカゴの弁護士でしたが、生まれはバーモント州の田舎村でした。彼が心の中で描いていたのは新しい形の専門職業人のクラブであり、そこで彼が幼年時代に体験したような仲間意識と友情の火を灯すことでした。
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1905年2 月23日、ハリスは、石炭商のシルベスター シール、洋服屋のハイラム ショーレイ、鉱山技師のグースタブス ローアなど三人の友人を招いて、シカゴのダウンタウンのユニティ ビル711号室にあったローアの事務所に集まりました。ハリスは、事業の指導者が定期的に会合して仲間同士の親睦を楽しみ、実業家、専門職業人の知り合いの輪を広げようと提案して皆がそれについて話し合いました。クラブは毎週会合すること;会員は夫々の業界や専門職種から代表の一名に制限することなどを話しました。その晩はロータリーという言葉は使われませんでしたが、その集まりは一般的に最初のロータリークラブの例会として見なされるようになりました。
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会合を重ねるにつれて、会場は会員の仕事場の持ち回りになり始めました。そこからロータリーという名前がつきました。印刷屋のハリー・ルグルスが五人目の会員として参加した後で、このグループは正式にシカゴ ロータリークラブとして結成されました。
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クラブの最初の徽章だった馬車の車輪の図案から現在ロータリアンが世界中で使用しているお馴染みの歯車の徽章が生まれました。1905年末のクラブ名簿では会員数30名、シールが会長、ルグルスが会計でした。ポール・ハリスは新しいクラブの役職を辞退しましたが、二年後に会長に就任しました。 会員数の増加につれて事務所での集会が難しくなったので、例会場を現在多くのクラブが例会を開いているようにホテルとかレストラントに移しました。
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これらの初期のロータリーアンは仲間同士の親睦とお互いの自己満足だけでは多忙な専門職業人たちを毎週クラブ例会に惹き付けるには十分でないことに気が付きました。不幸な人達の生活の改善のために手を差し伸べることがより重要な動機つけになりました。ロータリーの奉仕活動は、1907年にシカゴRCが市内で最初の公衆便所を建設した時に始まりました。クラブのこの初めてのプロジェクトによりロータリーは世界で最初の奉仕団体としてのクラブになりました。ロータリーの人気は全米に広がり始めました。
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| 二番目のRCは1908年にカリフォルニア州サンフランシスコに、三番目のクラブはカリフォルニアのオークランドに誕生しました。それからワシントン州シアトル、カリフォルニア州ロスアンジェルス、ニューヨーク州ニューヨークに続いて結成されました。ロータリークラブ全米協会が1910年第一回大会を開催した時に、ハリスは会長に選出されました。その翌年の大会で“無私の奉仕”と“最もよく奉仕する者、最も多く報いられる”の言葉が語られ、
ロータリーの標語になりました。“無私の奉仕”は後に“超我の奉仕”となり、ロータリーの第一標語に採択されました。 |
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